向日葵

〜もうひとりのセカンドチルドレン〜



■ Thirteenth Act as Epilogue…… Vanishing Point(消失点)、そして尽きせぬ想い ■



Presented by 史上最大の作戦





 時は、風に似ている。
 人々の営みとは関係なしに、いや、そもそも人類などという矮小な存在など歯牙に
もかけず、時という名を持つ風は流れ過ぎ、流れ去る。
 草原を風が渡る。
 時は流れ、何もかもが形を変える。
 だからこそ、そこにある「変わらない物」は、ある人間にとってはかけがえのない
物なのだろう。


 時は流れる。


「また、使徒が出たそうよ。日本に」
 フランシス・リンネの声に、アレックス・カーレンはプラグスーツの襟元をいじる
手を止めた。
「へぇ……」
 と呟いたきり、再び黙々と準備を続ける。
「あら、そっけないのね。心配じゃないの?」
「勝ったんだろ?」
「そりゃ……まぁ、そうだけど」
「なら心配しても始まらないさ、先生」
 呟きながら、左手首のボタンをクリックした。派手な空気音とともに、エメラルド
グリーンのプラグスーツが縮み、身体にぴったりとフィットする。
「あそこにはエヴァが3機も配属されてるんだ、心配ない。それに……」
「それに?」

「アスカがいる。負けるはずないさ」
「あらぁ、ご執心なのねぇ」
 横目でじろりと、少年は女医の顔を見た。
「当たり前さ。アスカは俺に勝ったんだ。あいつが他の誰かに負けたりしたら、俺ぁ
世界で三番目になっちまう。
 一番は最高、二番もまだ許せる。でも三番目はいやだな」
 語尾のあたりを口にする頃には、既にアレックスの目はフランシスから離れている。
「ふ〜ん、意外と負けず嫌いなんだ」
「そりゃちょっと違うなぁ。勝つのは嫌いだけど、負けるのはもっと嫌いなだけさ」
 つい、とアレックスは立ち上がった。準備が全て整ったのだ。
「……で、今日は何のテスト?」
「シンクロテスト」
「え〜、またかよ」
 アレックスの顔は、心底嫌そうだ。
「あれこれ言わないの。大事なテストなんだから」
「大事大事って、こう単純なシンクロテストばっかだと飽き飽きするなぁ」
 大袈裟に宙を仰ぐアレックス。
「あ〜あ、ドイツにいた頃が懐かしいよ。やな奴もいたけど、少なくとも対戦相手が
いた」
「やっぱりこっちは退屈かしら?」
「つまらんつまらん。対戦相手もさることながら、まず広々と使える場所がない。エ
ヴァの両手足が伸ばせないような所でテストばっかりやっても、実戦のカンが鈍るば
っかりだ」
「まあそう言うな」
 と言ったのはフランシスではなく、ちょうどロッカールームへ入ってきたミズーリ
司令だった。
「……あれ、珍しいな。こんな所に来るなんて」
 軽く目を見張るアレックス。
「北米支部の予算を考えたら、これだけのスペースを取れただけでもめっけものなん
だぞ、アレックス」
「いつでもどこでも、ついて回るのは金ってか。わざわざ俺と四号機をドイツに持っ
てったのは、ひょっとしてこっちに予算がないからか?」
「否定はしない」
 あっさりと言われて、アレックスはがっくりと肩を落とした。
「まあそう悲観したものでもない。連日の戦闘でテストもままならぬ日本に代わって、
ここ北米第二支部でエヴァのテスト関係は全て行われる。地味だろうが、重要な仕事
なんだぞ」
「子供にはもっと夢を与えてほしいもんだね」
 およそ「子供」という単語からは縁の遠い台詞を吐くアレックス。
 だが、もしも今の彼をアスカが見たら、「変わった」と思うだろう。ひょっとした
ら口に出したかもしれない。
 距離を、一歩一歩、縮めている。
 アレックスとミズーリ司令の事である。
 安物のホームドラマのごとく、劇的な変化があるわけでもない。
 負の感情を、ゼロに戻す。話は全てそこからだ。
「……で、今日はどんなシンクロテスト?」
「日本から運ばれてきた『S2機関』をテストする」
「S2機関?聞いた事ないな。……日本から?」
「ああ。研究開発をこちらですることになった。エヴァの新しい動力デバイスだよ」
「ふ〜ん。電気じゃなくなるんだ」
 アレックスにかかると、人類最後の希望も冷蔵庫かTV並みの扱いになってしまう。
「実験に成功すれば、エヴァの活動限界は飛躍的に増加する」
「へぇ。そりゃ悪くないな。残り時間を考えながら戦うのは性に合わないしな。もし
それがエヴァに採用されたら、日本にいる三人の『チルドレン』も、少しは楽に戦え
るかな?」
 返事は、アレックスの予想していたものではなかった。
「三人ではない」
「……?」
 いぶかしむアレックス。
 初めてミズーリは笑った。
「四人だよ」
「四人?」
「ああ。お前も行くんだ、アレックス。日本へ」
「……へ?」
 ぽかんと口を開き、少年は自分の顔を指差した。
「俺?」
「そうだ。日本も度重なる使徒の襲来で、てんてこまいでな。優秀なパイロットが一
人でも欲しい」
「俺が?」
「そうだ。今回のテストに成功すれば、S2機関は正式にエヴァシリーズに採用され
る。その第一号がプロダクションナンバー04、エヴァンゲリオン・エクスペリメン
トモデル。つまりお前のエヴァだ」
「俺が……ねぇ……」
 感心しているのか驚いているのか分からない口調で、アレックスは呟いた。
「参号機は未だロールアウトしていないし、フォースチルドレンも見つかってはいな
い。来週早々にもお前はそのフォースになって、四号機とともに日本へ向かう事にな
る」
「……へぇ……」
 まるで他人事のような顔である。状況が飲み込めていないのか。何も知らない人間
が見たら阿呆かと思うだろう。
「ふ〜ん、俺が、日本にねぇ……」
 何度もその言葉を繰り返す。
 最後の言葉は、自分自身に語りかけていたかもしれない。
「約束……守れそうだな」
 ゆっくりと、少年の唇に笑みが浮かんできた。


  向日葵は回る。
  太陽を掴むかのように、憧れるかのように、回り続ける。
  地表に舞い下りた太陽の欠片は、生まれた場所へ帰ろうとする。

  彼らは、届かないと分かっているのか。
  分かっているなら切ないし、分かっていないなら悲しい。


「アレックス、気分はどうかね?」
 ハインツ作戦部長が無線を通してアレックスに語りかけてきた。
 既にLCLで完璧に満たされているエントリープラグの中で、アレックスは静かに
返答した。
「上々。何もおかしな所は感じません」
「気分が悪くなったり精神に混乱が生じたりしたら、速やかにプラグ強制排出レバー
を引きたまえ」
 とは言うものの、アレックスの動きはもちろんのこと、心の動きさえも数値化され、
離れた場所にある作戦室にモニタリングされている。何か異変が起こったら、本人よ
りも先にコンピュータが気付くはずだ。
 戦闘の瞬間以外はまるで鈍感なアレックスのことだ、「あれ、何か気分悪いなぁ」
と思った頃には、既に救助隊が彼を担架に乗せていることだろう。
 よくよく考えてみれば、「テスト」だとか「実験」に一番向いていないパイロット
なのかもしれない。
「……」
「?」
 形のよいアレックスの眉が、ふとひそまった。
 そのままエヴァを起動するのかと思ったが、何やら無線の向こうが慌ただしい。
「どうかしましたか?」
「……ああ、すまない。少々トラブルが発生した」
「え?」
「システムに少し異常が出た。今対処中だ。起動はもう少し待ってくれ」
「……分かりました」
 そう珍しいケースではない。エヴァなどという生体兵器をコンピュータでコントロ
ールしていて、異常が出ない方がよっぽど異常だ。少なくともアレックスはそう考え
ていた。実際、起動テスト前にトラブルが見つかる事の方が多い。
 アレックスはふぅ、と溜息を一つついてシートに深く埋まった。
 そこは、巨大なプールだった。
 アレックスは「狭い」と評していたが、少なくともエヴァが直立してメンテナンス
を受ける事ぐらいは可能な広さだ。もう少し無理をすれば、起動実験場としても使え
なくもない。
 ドイツにいた頃のハンガーデッキとそっくりで、こうしてエヴァに乗って外部スク
リーンだけを点灯していると、まるでドイツ支部にいるような錯覚を覚える。
 ドイツで思い出した。
「……今頃どうしてるかな、あいつ」
 インダクションレバーに肘を突いて頬に右手を当てた格好で、アレックスはぼんや
りと考えていた。
「腕はダントツなんだが、どうも性格に協調性を欠くからなぁ。平地に乱を起こして
なきゃいいけど」
 自分の事は遥か遠くの棚に放り上げて呟くアレックス。
「……退屈か、アレックス」
 出し抜けに声がして、少年は少し驚いた。ハインツの声ではなかったのだ。
 ミズーリ司令だった。
 小さなウィンドウに映し出された、重厚な顔。ウィンドウのバーにある文字列を見
るまでもなく、背景の調度からそこが司令室だと分かる。責任者が執務を行う個室だ。
「い、いや。別に」
 アレックスの声が、少しだけ緊張を帯びた。
「何しろ初めて使うデバイスだからな、色々と初期トラブルが多い」
「その方が助かるさ。引き返せない所でトラブルが出るよりは」

 大人びた口をきいたところで、ふとアレックスは身を乗り出してみた。
 話にしか聞いていない「S2機関」なるものがどんな形なのか、プラグ内からでも
確認できるかどうか試してみたのだ。
 数秒間じっと眺めていたが。
「……何も変わった所は見当たらないなぁ」
「S2機関の事かね?」
「ん、ああ」
「あれは完全な内部デバイスだからな、プラグ内のモニタでは確認できんよ。しかし
動いてみればすぐに分かる」
「分かるって、どんな風に?」
「今回の起動実験では、アンビリカルケーブルは使わん」
「……へぇ」
「S2機関という動力のみでエヴァがどのくらいまで活動できるか、今回はそのテス
トだ」
「初物で全動力をまかなうか。下手すりゃ、起動と同時にエンストするぞ」
 育ちのせいか、アレックスはともすると「物事の最悪の面」しか見ない性癖がある。
 だが声だけのミズーリ司令は、薄く笑ったのみ。
「それならそれで構わん。原因を調べて解決すれば済む事だ。トラブルというのは最
初のうちに出れば出るほど後が楽になる」
「なるほど、そりゃ真理だな」
「もっとも、最初から最後までトラブルが出ないというのが最も理想なんだがな。そ
うなるかどうかは、お前の働き一つだ」
「頼むからプレッシャーを与えないでくれ」
「いや、冗談ではないぞ。それほどまでにこの『S2機関』は画期的な動力源なんだ。
この技術が完成すれば、使徒など敵にすらならん。いや、それどころか……」
「それどころか?」
 アレックスが先を促したのは、父親の声によどみを感じたからだ。
 しかしその言葉は正当には報われなかった。
「……いや、何でもない」
 気のせいだろうか。
(……慌ててなかったか、今?)
 たとえるなら、「言ってはいけない事を口にしてしまった」時のような声だった。
「……」
 音声回線は開いているが、あいにくと映像は届かない。表情が見えない。だから相
手の感情の動きを、声だけで判断せねばならない。
 エヴァの敵は、NERVの敵は、人類の敵は、「使徒」だけではないのか?
 「それどころか」、今ミズーリはそんな言葉を使った。
 まさか……使徒よりも強大な、敵?
 絶大な力を誇る使徒よりも、強い敵がいるというのか?
(やだなぁ)
 背筋も凍りつかんばかりの事実のはずだが、アレックスの感想はインフルエンザ予
防接種の通知を見た小学生の気持ちから1ミリもはみ出てはいなかった。
 そのまま、言葉を続ける。今の会話に生じた齟齬には、あえて水を向けなかった。
「そうかぁ、それなら俺が日本に行かなくても片付きそうだな」
「楽しようと思ってもダメだぞ。お前には日本に行ってもらうからな」
「俺の出る幕なんてなさそうだけどなぁ」
 宙を見上げたアレックスだが、その表情は悪くなかった。
「……親父も行くんだろ?」
 この瞬間、アレックスは人生最大の努力を振り絞っていた。
 「親父」、この単語を口にするために。
 それは、一つの壁。
 父を父と呼ぶ事、それは壁だった。
 できるだけさりげなく、自然に、最初の一言を。
 だが、ある意味では報われたし、ある意味では報われなかった。
「いや、私は行かない。お前の身柄は日本のNERV本部に所属する。私は私で、北
米で新たな『チルドレン』を養成せねばならんからな。今度ロールアウトする参号機
のパイロットも、まだ決まっていない事だし」
「え〜」
 口を尖らせるアレックス。
「まあ、お前はしっかりしているから、一人で行っても大丈夫だろう。葛城三佐もい
る、不自由はせんだろう」
「へえ。ミサト、昇進したんだ」
 一年ほど前までの作戦部長の名前を、アレックスは口にした。
「ああ。それに……」
 と言いかけたミズーリ司令が、ふと口を閉ざした。
「……すまん、ちょっと来客だ」
 どうやらノックの音がしたらしい。
「ん」
「取りあえず今日のシンクロテスト、頑張れよ」
「ああ」


 ミズーリ司令は息子のその声を確認すると、机の上にあるインターカムの電源を切
った。
 いや。
 切った、つもりだった。


 崩壊へ向かう動きをプログラムと言うならば、それは一つの歯車だったろう。


 シートに深く埋まって軽く鼻歌などを口ずさんでいたアレックスが、ふと視界の隅
に映ったランプに気付いたのは、父との交信が終わった数十秒後だ。
「……あれ?」
 通信系のパイロットランプだ。緑色は「回線オープン」を意味する。
「親父の奴、切り忘れたな」
 親父という言葉を口にする顔を、どうたとえたらよいものか。
「悪くない響きだな」
 そう言いたげだ。
「もったいないな。予算がないんだから、こういう所に無駄な金を使っちゃいかん」
 もっともらしい事をブツブツと呟いて、頭の中で回線を開く。エヴァにはコントロ
ールパネルといった無粋な物は存在しない。全て脳波でコントロールされる。
 少しだけ歪んだ音を立てて、向こう側から音が、聞こえてきた。
「おい、親父。切り忘れてるぞ」
 と言おうと息を吸ったが。
「……?」
 アレックスの眉がひそまる。
(……リンネ先生?)
 聞き覚えのある声だった。つい先ほどまで一緒にいた女医である。
 ただし、慎重に聞かないと分からない。
 なぜなら、その声は溶けて崩れていたから。
「……何やっとるんだ?」
 ひそまっていた眉が、しかめられた。
 14歳の少年が聞いた事もない、声。
 だが、知識にはある。
 それは喘ぎ声だった。


 年頃の少女が聞いたら頬を赤らめそうな声が、スピーカを通してエントリープラグ
内に響いた。
 その声に合わせて、濡れた音が聞こえてくる。
「……うっ……ああ……」
 二人以外誰も聞いていないと思っているのだろう、フランシスの声は次第に大胆に
なってゆく。その隙間から、男の荒い息が聞こえてきた。声と息遣いの間に、ソファ
の軋む音がする。
 映像は見えない。アレックスが先程から一生懸命画像をオープンさせようとしてい
るが(結局、男の子なのだ)、どうやら司令の私室にはカメラがないらしい。
 声だけ聞いていると、泣いているようにも聞こえる。乏しい知識であれこれと想像
してみるが、どうも14歳の少年の感性には限界がある。
 代わりにひとりごちた。
「ご発展だなぁ、親父」
 不思議と、不潔な父親に怒りや嫌悪感は感じなかった。何よりも「意外」が先に立
つ。
 二人を同時に見る事は何度もあったが、こういう関係だとは夢にも思わなかった。
まあ父は40手前、フランシスは確か20代後半だったから、多少の事に目をつぶれ
ば「似合い」と言えなくもない。
 しかし……
「昼間っからようやる」
 呆れたような、感心したような、感想である。
「ひんっ……!」
 父の指か舌かがどこかのドアをノックしたのだろう、フランシスが一際大きな悲鳴
をあげた。
 もぞもぞと、アレックスはプラグスーツを引っ張った。こういう声は14歳の少年
には刺激が強すぎる。
「テストにいそしむ息子を放ったらかして、お楽しみとはねぇ。いい身分だな、司令
ってのも。俺も頑張って出世するかな」
 半ば以上揶揄するように独白して、アレックスは通信回線を閉じようとした。
 瞳には自己嫌悪の色が濃い。偶然とは言え、「覗き」に近い行為は少年のポリシー
に反していた。その事に今更ながら気付いたのだ。


 回線をクローズする命令を、頭の中で考える。
 考えようとする。
 それが、ふと止まった。


 喘ぎと喘ぎの間から、フランシスが声を洩らしたからだ。
「ひどい……父親ね、あなたも……」
 ぴくりと、アレックスの表情が動いた。
 「父親」に相対する存在は、自分をおいて他にはいない。
 息を止めたまま、ミズーリ司令の声を、待つ。
「そうかな……?」
 それは低く掠れていて、まるで別人の声だった。アレックスが初めて聞く声。
「君もひどい担当医だと思うが……?アレックスのテスト中にこんな所でこんなはし
たない姿をさらして……」
「やっ!言わないで……」
 嬌声に近い声。言葉とは裏腹に「もっと言って」という欲望が見え隠れしている。
 しばらく、舌が動く音が響いていた。「あっ、あっ」というスタッカートのような
短い喘ぎ声がリズミカルに呼応する。
 やがて再び、フランシスの声。
「それとこれとは……話が別でしょ?私に言わせれば、父親失格よ、あなた」
「だがセックスの相手としては悪くないだろう?」
「ふふ……それもそうね」
 魔女めいた笑い声。
 アレックスは顔をしかめた。
 こめかみが、妙に痛み始めたのだ。
(何を言ってるんだ、この二人は)
 それよりも、この痛みは何なんだ。間欠泉のように頭を叩く。頭蓋骨が割れそうだ。
「父親失格なのは、私も承知している。それに、直そうとも思わん」
「アレックスが聞いたら、どう思うかしらね」
「構いやしない。そもそもバレやしないさ。あいつは最近、妙に私になついている」
「ひどい人……あっ!」
 ソファの音が激しく動く。
「いやっ!こんな、こんな恥ずかしい格好……」
「やめるか?」
「ううん……やめないで」
「人間、正直なのが一番だ」
「あなたの口からそんな言葉を聞くなんてね、長生きはするものだわ」
「私は正直だぞ?少なくともあいつよりは」
「アレックスの事?」
「……ああ。あれは母親に似過ぎている。というか、私に全く似ていない。考えてい
る事が読めん」
「不愉快かしら?」
「ああ、ひどく嫌な感じだな」
「それ、私も同感ね。顔はあなたに似ず綺麗だけど、あの目が……」
 反射的に、アレックスは自分の目のあたりに右手をやっていた。
「あの目が、何だか怖いの。何も知らないようで、何もかも知ってるって言いたそう
な目が……」
 どうしてここは息苦しいんだ?プラグスーツの襟元は、どうしてこんなに喉を締め
付けるんだ?呼吸できないじゃないか。
「あなたと私の事も、全部お見通しなんじゃないかって思わされる。あの目で見られ
ると、ゾッとするわ」
「そっちこそ、アレックスが聞いたらどう思うかな?」
「全然大丈夫。彼が日本に行けば、もう顔を合わせることもないしね」
 ああ、誰かこの痛みを止めてくれよ。食あたりか?こりゃテストどころじゃないぞ。
アスピリン1万単位くらい、もらえないかな?
 それに何だ?えらく周りの景色がぼやけてる。ゆらゆら、揺れてるじゃないか。
 熱でも出たのか?1万単位じゃ効かないな。
「ね、彼の事なんか放っといて……来てよ」
「ああ」
 そして、一際大きな声が。
 貫かれる女の、悲鳴にも似た声が。
「あ……はぁ……いいわ……」
「性格は悪いが、ここの具合は最高だな、君は」
「ふふ、逆よりはよっぽどましよ」
「違いない」
 肉と肉とがぶつかる音が聞こえる。恐らく獣の姿勢で交わっているのだろう。
 荒い息遣いの隙間から、ぽつりと男の声がした。
「あいつは……私の罪だ」
「な……なに……が?」
 間断なく責められているせいか、フランシスの声は途切れ途切れだ。
「あいつが私を見るたびに、私は背筋が寒くなるよ」
「ひどい事……言うのねぇ。あなたの実の息子よ?」
「だからぞっとするんだ。他人の息子ならこうは思うまい。それに……」
「それ……に?」
「あいつが他人の息子なら、どれだけ気が楽か」
 痛い!痛い!痛い!
 LCLに何か不純物でも混じってるのか?呼吸はしにくいし、何よりこの頭痛!!
「それでもエヴァのパイロットとしてはいい腕前じゃない」
「それがなかったら、誰が会うものか。あいつからエヴァを取ったら、何も残らない
じゃないか」
 おい、頭だけじゃないぞ。心臓が……
 心臓が、バクバク言ってる。何だよこれ。
 身体が、熱い……
「それに、女に負けるとは……しかも、あんな無様な負けよう。他に適格者がいなか
ったから助かってるんだぞ」
「あらぁ、そんなにひどいかしら?」
「まあ、あの程度の腕なら日本でも活躍なぞできまい。何しろあいつに勝ったアスカ
でさえ、あっちではファーストとサードに遅れをとっているらしいからな」
 あ、アスカの名前が……
 アスカ?
 誰だ、アスカって?
 聞き覚えがあるんだけど、思い出せない。ハッキリしない。
 頭がぼんやりしてて、痛くて、あまりうまく考えられない。
 あれ?両手が二重三重に見える……
「困るわねぇ。そんなので使徒に勝てるのかしら?」
「勝てんだろう。今のところはおだててるから本人もその気になってるが、あっちに
行けば嫌でも思い知るさ」
「ひどいわね。人類を守るパイロットなんでしょ?」
「だからこうやって、おだててるんだ」
「おだてるのもいいけど、そういうのって本人にとって命取りにならない?」
「命取り?……願ってもないことだ」
 含み笑い。


 どくん。
 どくん、どくん。


 頭が痛い。
 アタマガイタイ。


「ちょうどいい厄介払いになる」


 チョウドイイヤッカイバライニナル。


 身体が熱い。
 頭が痛い。
 心臓が軋む。


 カラダガアツイ。
 アタマガイタイ。
 シンゾウガキシム。


 水の中に落とした一滴の波紋のように、何かが……
 ……何かが、ヒロガル。
 揺れて、揺れて、ユレテ、揺れて。
 ヤガテ、それが。


 弾けル……!!


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 鳴り響く警報の音。
 LCLが沸騰する。
 エヴァの両目が、そして額の中央にあるもう一つの目が、輝く。


「エヴァ、起動します!!」
「何だと?誰だ、起動命令を出したのは!?」
「いえ、四号機が単独で……!!」


 壊す。
 世界を壊してやる。
 永遠を望むのが叶わないのならば、いっそこのまま、俺ごと、あいつごと。
 あいつらごと。


「どうした、何があった、アレックス!?」
「ねえ、返事をして!!」
 うるさいなぁ。お楽しみなんだろ?
 俺に構わず、続きをどうぞ。


 ……これを望んでいるのは、俺か?
 ああ、俺だ。
 いや、俺じゃない。
 何だこれ。俺の心が二つある。
 もう一つは……
 違う、どちらも俺の心だ。
 ダメだ、ダメだ、ダメだ。
 このままだと、砕ける。壊れる。弾ける。
 止めなきゃ。
 でも、止まらない。
 エヴァの身体の中から……
 違う、俺の身体の中から。


 うずくまるアレックス。
 LCLはひっきりなしに泡を吐き続け、それがどんどん、どんどん。
 血の色に変わってゆく。


 俺はこれを望んでいるのか?
 世界の崩壊。できそこないの夢をハンマーで一気に壊す事。
 それが俺の望みだったのか?
 そうだ、100%、俺の意志だ。
 違う、何かが俺を「そうさせた」。
 俺の心が、二つある。どちらも真実。
 S2機関。
 エヴァのパワーを引き上げるデバイス。
 俺の心も加速したのか?
 そうだ。
 違う。
 ロジックが砕け、再構築される。
 何度積み重ねても、元には戻らない。二度と同じ物は生まれない。


「パイロットの精神汚染、危険域に入ります!」
「プラグを強制射出しろ!」
「駄目です、信号を受けつけません!!」
「ハーモニクスが乱れています!!」
「四号機、暴走します!!」


 ああ、光が見える。
 綺麗だな。初めて見る。
 これが、エヴァ?
 ちがう、使徒?
 ちがう、人間?
 どれも同じなのか?
 父さん、母さん。


「シンクロ率、348%!!」
「パイロットの心拍数、190!!!」
「何だと……!?計器の故障ではないのか!?」
「いえ、正常です!!」
「エヴァが……」
「どうした!?」
「エヴァの光球が、発光しています!!」


 向日葵が見える。
 望んで、手に入れようとして、手に入れられなかった世界。
 空から舞い降りる、その世界からの欠片。
 今でも元気に咲いているだろうか。
 もう一度、ドイツに見に行こうかな……
 永遠の夏。その中で、夏の花は永遠に咲き続けるだろう。


「駄目だ!!もう止まらない!!」


 エヴァの体内から洩れ出た光は、エヴァ本体を押し包む。
 そしてどんどん、どんどん。
 どんどん広がって。


 綺麗な光。
 あの向こうにある世界は、俺が望む世界だろうか。
 そうであってほしい。
 もう、まっぴらだ。


 沸騰するLCLの中。
 目といわず、鼻といわず、耳といわず、全ての器官から血流がほとばしる。
 アレックスは。
 にっこりと、微笑んだ。


「新しい世界。実に素晴らしい。そう思わないか、アスカ……」


 光が、その笑顔を。
 透明な金髪を。
 エメラルドグリーンの瞳を。
 同じ色をした、エヴァンゲリオン四号機を。
 「父親」と「愛人」を。
 司令室のハインツと、オペレータ達を。
 NERV北米支部を。
 アレックス・カーレンのいた世界を。
 漂白した。


 全てが、無になる。


 ……少しだけ、時は流れた。


 ……アスカは、大きく息を吸い込んで、そして吐き出した。
 いつもこの部屋を訪れる時には、そうせずにはいられないのだ。
 やがて意を決したように、アスカは自動ドアのボタンを指先でノックした。
「か〜じさん!」
 語尾にハートマークを三つばかしくっつけて、自分が一番かわいいと信じている笑
顔を見せる。
 だがその笑顔も、背中からは見えないだろう。
 何やら机の上の端末に向かってカタカタとキーボードを叩いていた加持は、振り返
りもせずに返事した。
「アスカか。すまない、今ちょっと忙しいんだ」
 途端にアスカの顔が曇る。
「ふ〜ん、ミサトには会ってるくせに」
 勿論、この台詞は加持に聞こえない音量で、である。まだ逆転の目が残っている限
り、諦めるわけにはいかない。諦めたくない。
 根性があると言えば言えるし、子供っぽいと言えば言える。アスカはまだ14歳だ
った。
 加持はよっぽど仕事に追われているのだろう、顔を一度もこちらに見せないままだ。
 このまま邪魔をせずにそっと部屋を出て行けば嫌われないのだろうが、それではア
スカの気が済まない。
 そっと、足音を忍ばせて、アスカは肩幅の広い加持の背中に忍び寄った。
「わっ!!」
 一気に飛びつく。服越しでも分かるガッチリとした加持の筋肉の感触が、アスカは
好きだった。
 だが今回ばかりは、ちょっと勝手が違う。
「こら、今は駄目だ!」
 慌てたような加持の声。急いでモニタに映っていたデータを隠そうとする。
 そんな風にされると、余計に見たくなってしまうのが人情という奴である。
「ん〜?」
 どれどれとばかりに、アスカは加持の肩から顔を突き出した。加持は慌てて片手で
画面を隠すが、アスカの目は素早く画面上の文字列を読み取っていた。
「あ、これ私達4人のシンクロデータね!」
 ファースト、セカンド、サード、フォース……
 ……
 ……
 フォース?
「え、4人?」
 目をパチクリさせるアスカ。
 もう一度、画面をよく見る。
 加持は諦めたのか、もう隠そうとする意志は見せない。
 文字列を大急ぎで検索する、アスカの目。
 ファースト……優等生。
 セカンド……あたし。
 サード……あのバカ。
 フォース……
 ……え?
「何これ!?」
 最初に出た言葉が、それだった。
 それは、アスカがよく知っている人間の名前だった。
 だが、予想していた名前ではなかった。
「どういうこと!?フォースチルドレンが、何でこいつなの!?」
 灼熱と冷気を同居させた視線で、加持を睨み付ける。
 こちらを見ようとしない。困ったような顔で、視線を合わせない。その事が余計に
アスカの癇に障った。
「分かんないわ、何なのこれ!!」
 頭に血が昇る。脳が白く灼ける。
 無言で加持は、モニタを見るともなしに見つめている。
 無表情。あるいは、無表情を装っている。
 その顔に、アスカは再び声の塊をぶつけた。
「アレックスはどうしたの、アレックスは!?あいつがフォースじゃないの!?」
「彼は……なれなかった」
「冗談じゃないわ、このバカがあいつ以上のシンクロ率を持ってるっていうの!?」
「そうじゃない」
「なら、何でアレックスじゃないのよ!?」
 冗談じゃない。
 アスカに真正面から戦って唯一土をつけた人間、それがアレックス・カーレンだ。
このまま負けっぱなしで終わってたまるか。
「教えて加持さん。あいつはどうなったの!?」
「アレックスは……」
 加持はひどく言いにくそうに、言葉を選ぶ。
 しかし意を決したように、結局は飾りのない言葉で告げた。


「アレックスは……死んだ」


 その言葉を聞いた瞬間。
 アスカの肩から、一気に力が抜けた。
「……え?」
 頭がぼんやりする。
 自分の声が、まるで遠くの世界の音のように聞こえる。
「死ん……だ?」
 加持は淡々と、感情の波をアスカに伝えまいとするように無表情な声で、ポツリポ
ツリと語る。
「北米第二支部で、四号機の起動実験中……暴走した」
「……」
「半径89キロメートル以内は、完全に消滅したらしい。アレックスも、四号機も、
北米支部も、ハインツ作戦部長も、リンネ先生も……ミズーリ司令も」
「……」
 何を言ってるのか分かんない。
 加持さん、何言ってるの?
「四号機は永久欠番……新しいフォースチルドレンが乗るエヴァは、参号機だ」
 遠い遠い、どこかの風景に。
 燦燦と。
「……」
 向日葵が見える。
 空に屹と、誰にも負けない姿で、立っていた向日葵。
「……アスカ?」
 加持の声が聞こえる。窓の外を渡る風のような音で。



 アスカは、一言だけ。
 何の感情もこめない声で、ぽつりと。


「……そう」


 草原の中に、たった一本だけ。
 何かを求めるように、空を仰いでいた向日葵。
 それは、新しい世界を求めるための。
 今までの自分じゃない、新しい自分のいる世界を求める、姿だったのか。


 今でも咲いているのだろうか。
 いつまでも咲き続けるのだろうか。
 夏が夏である限り、永遠に。
 彼が望んだように、何も変わらないままで。


 アスカはふと、そんな事を考えていた。


【FIN】



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