向日葵

〜もうひとりのセカンドチルドレン〜



■ Eighth Act …… 風吹く丘 ■



Presented by 史上最大の作戦





「……どうしたの、アスカ?何だか元気ないじゃない」
 フランシス・リンネがデータと睨めっこしながら、こちらを向かずに訊ねた。
「……何でもないわ」
 ボソボソと呟くアスカの声に、今度は振り返る。
「もう、いっつもアスカはそればっかりね。何訊いても『何でもない』の一点張り。
ちょっとは話してよ、話すだけならタダなんだから」
 それでもアスカは、頑なに首を振るだけ。
「何でもないのよ、本当に」
「そうかしらぁ?本人がどう言っても、医療機器は正直よぉ。ほら、メンタルレベル
と擬似シンクロ率がこんなに下がってるわ」
 だったらあたしの悩みの原因も、その医療機器とやらで調べたらいいじゃない。
 口には出さなかった。口に出すのも億劫だったし、癪だった。医師としては有能な
のかもしれないが、このお喋りだけは勘弁してほしい。
 代わりに別の言葉が、口をついて出た。
「……疲れてんのよ、多分」
「そうかしら。メンタルレベルは疲労に左右されるけど、シンクロ率は深層心理の問
題だから、肉体的なストレスとは無縁のはずだけど……」
 だから精神的な物なのよ、このヤブ医者。
「大丈夫、エントリープラグに入れば元に戻るから」
「だといいんだけど……ま、アスカなら大丈夫ね」
 上着も着終えて医務室を出ようとしたアスカが、その言葉に振り返って訊ねた。
「……何でそう思うの?」
 自分でも思ってもみなかった質問だった。言ってしまってから、自分がそれにどん
な回答を求めているのかも分からない事に気づく。
 フランシスは何をか言わんやといった顔で、両手のひらを見せる。
「何で……って、アスカだからよ。ここNERVドイツ支部で一二を争う天才パイロ
ット。今度日本へ一体エヴァが配属されるんでしょ?それだってパイロットは間違い
なくアスカだって、もっぱらの噂よ」
 アレックスのそれよりも透明度の劣る金髪をかき上げる仕種が、アスカの勘に障る。
「強いのかな、あたし」
「そりゃあもう。ちょっと羨ましくなるくらい」
「……関係ないわよ、そんなの」
「?」
 フランシスは、探るような目でアスカを見た。仕事をしている目だ。それがアスカ
にはひどく不愉快に映った。
「強いの強くないのって……そんなの、関係ないのよ」
「どういう事?」
「それは先生に関係ない事」
 突き放したアスカの口調に、フランシスはふぅと溜息を洩らした。男にはたまらな
い声らしいのだが、少女であるアスカにはよく分からない。
「そう……。話す気になったら、いつでもいらっしゃい。こう見えても一応カウンセ
ラーの資格も持ってるんだから、私」
「気が向いたら……ね」
 振り返りもせずにアスカは返答した。
 ドアをくぐり抜けようとする瞬間。
「そう言えば……最終試験、明後日ですってね。頑張ってね」
 今度は、ドアの閉まる音だけが返事だった。


 部屋に戻ると、アスカは何をするでもなくベッドに寝っ転がった。
 眠くはない。だが、何かをする元気がないのだ。
 何だか、全てがひどくバカバカしく思えてきた。
 今までの自分は何だったんだろうと、思う。
 勿論、今度日本へ行けなかったとしても、それは即ドロップアウトということには
ならない。むしろライバルがいない分、この世の春を謳歌できるはずなのだが。
 エヴァのパイロットになって、日本に行って、使徒と戦う。
 それはアスカが喉から手が出るほど欲しい未来だった。
 授業は退屈だし、シンクロテストも退屈だ。だがその全てに、アスカはベストの成
績で応えてきた。
 全てはエヴァの正パイロットになるため。
 だがアスカは、何者かの手のひらの上で遊んでいたに過ぎないのだ。
 アレックス・カーレンの上に立ち、日本へ行く。
 他人、そして本人達にも納得のいく結果を出して。
 それが、アスカの目標だった。
「ばっかやろぉ……」
 罪もない枕に当たり散らす。
 どんなに頑張っても、駄目なものは駄目。
 もしアレックスが完全な無能者で、エヴァを動かす事すらできないのならば、話は
別だ。文句なしでアスカに決まるだろう。
 だが彼は、他の誰よりも……時と場合によっては、アスカよりも……エヴァの扱い
に長けている。
 今現在の、二人の実力差はどうなんだろう……できる限り客観的に見ると、アスカ
の方がほんの少し、紙一重の差で上だ。ここ二戦は不覚をとったが、それでもまだ、
アスカの方が強い。
 その紙一重の差を補ってあまりあるのが……
(アレックスは、ミズーリ司令の息子……)


 二日前。
 ……あの時、自分は何を言ったのか、それに対してアレックスがどんな顔でどんな
事を言ったのか、アスカは正確に覚えている。
「……どういう事?」
 確か第一声は、アスカの方だった。
 そこで初めて、アレックスは顔を上げた。それまでかがみこむ形で如雨露を見てい
た、はずだ。
 そこには、今まで見たこともないアレックスがいた。
 つまり、真面目な表情のアレックスが。
「……文字通りの意味だ」
 言わなかったっけ?とか、知らなかった?といった逃げの言葉は使わなかった。
「どういう事よ、それ……」
 アスカの質問は、一歩も前に進んでいない。そしてアレックスもその事を指摘しな
い。
 質問の形をとっていながら、アスカの言葉は質問ではない事を理解していたから。
 だからアレックスは、真正面からその言葉を言葉で受け止めた。
「俺は、ウィンストン・ミズーリの実の息子だ。俺がNERVに来たのは、父親がこ
こにいて、父親に呼ばれたからだ」
 その言葉を聞いた瞬間のアスカの動きは、実に素早かった。
 乾いた音が、広い空に響いた。
 赤くなった頬に、アレックスは少し戸惑ったように左手で触れた。だが声に感情の
色はない。
「……そういう事だ。だけどアスカ……」
「黙れ!!言い訳なら聞きたくない!!」
 自分でも驚くくらいの大きな声だった。
「あんた達、グルであたしを騙してたのね!」
「そうじゃない」
「そうじゃないって、何がよ!!あれだけ大層に模擬戦だテストだってあれこれやら
せて、結局パイロットはコネで決まるっていうの!?」
「誰もそんな事言ってないぞ」
「決まってるじゃない!!司令が息子のあんたをパイロット候補にした時点で、あん
たが正パイロットになるのは目に見えてたじゃない!!」
「それは……まあ、なるほどな……」
 妙に納得してみせるアレックス。だがそれはアスカを落ち着かせるどころか、逆効
果だ。
「何よ、みんなであたしをバカにして!!」
「おいアスカ……」
 駄々っ子をなだめるように……実際、それに限りなく近いのだが……差し出された
アレックスの右手を、アスカは力いっぱい払った。
「嫌い、あんたなんか大っ嫌い!!」
 絶対に泣くまいと、それだけを自分に言い聞かせながら、アスカは猛然と走り出し
た。
 アレックスとは逆の方向に。


「……あ〜あ、何だかどうでもよくなってきたなぁ……」
 気持ちを口に出すと少しは気が晴れるかと思ったが、全然効果はなかった。胸が重
い。呼吸が数割ほど失われている感じだ。
 考えてみれば、今まで挫折とか失敗とか、あまり縁のない人生だったように思う。
 大半の事は持って生まれた才能で何とかなったし、残りは努力でねじ伏せた。
 だが、どんなに才能を持っていても、どんなに努力しても、かなわない願いという
のは存在するらしい。
「正パイロットは、アレックスで決まりか……」
 ほぼ間違いないと思う。自分が司令でも、そうすると思う。
 アスカとアレックスの差は、見ようによっては全くないと言っていいくらいだ。バ
ランスを保っている天秤の片方を傾けるのに、「自分の息子」という要素がからめば
間違いなくそちらへ傾く。
 最終の模擬戦は、恐らく半ば以上が欺瞞だ。アレックスが勝てばそのまま文句なし
に決定するだろうし、アスカが勝ってもあれこれと過去のデータを引っ張り出してア
レックスに決めてしまうだろう。それだけの成績を彼はおさめているのだ。
 それならば。
 生まれて……正確にはエヴァのパイロット候補生に選ばれてから今まで自分がやっ
てきた事は、一体何なのだろう。
 7年。エヴァのパイロット候補生に選ばれてから7年が経つが、その時間の大きさ
と無意味さに改めて気付く。
 勿論、今パイロットになれないからといってこれからも一生なれないわけではない。
「使徒」の攻勢は日を増すごとにどんどんと強くなっている。仮に今ここで正パイロ
ットになる機会を逸しても、近い将来すぐになれるだろう。
 だが、二番手なんか、負けと同じだ。少なくともアスカはそういう考え方で生きて
きた。
 一度も会った事のないファーストやサードはともかく、何年も同じ場所で暮らして
きて競い合った人間に負けるのだけは、絶対に嫌だ。
 実力で負けるのも嫌だし、それ以上に実力以外の所で負けるのが嫌だ。
「……負けるもんか」
 アスカの声に、そこで初めて意志の気配がこもった。
 相手がどんなに強かろうと、どんなに有利な立場にいようとも、関係ない。
 こうなったら、とことんやるまでだ。
 たとえ自分が選ばれなくとも、最終試験の結果がアレックスを選ぼうとも、構わな
い。
 圧倒的な力の差で勝つ。
 そして日本へ向かうアレックスを、嘲ってやろう。
 「あんたは日本で活躍するかもしれないけど、ナンバーワンじゃないのよ」と言っ
てやろう。
 そうすれば、僅かながら救われるような気がする。少なくとも、気が晴れるだろう。
 だが……
 アスカは、別れ際の少年の顔を思い出していた。「思い出した」という動詞を使う
ほどハッキリと意識の中に投影したわけではないが、混沌とした沼の水面にふと顔を
出す。
 どういう表現を使っていいものやら分からない、一種複雑な顔だった。
 形のよい眉を少しだけひそめて、目は沈みがちで。
 ……寂しそう、そう、「寂しそう」という表現が、一番適切かもしれない。それが
十二分な言葉とは思えないけれど、一番近い。
 アレックスは、何だかひどく寂しげだった。アスカが初めて見る、アレックスの人
間らしい顔。
 何が寂しかったんだろう……?
 アスカの意識は部屋の中を漂う。


 小さく、ノックの音がした。
「アスカ、ちょっといいかな?」
 一瞬、アスカが今意識に浮かべていた少年かと思ったが、外れだった。
「あ……」
 こんな状況でなかったら両手を挙げて歓迎するであろう相手、つまり加持だった。
アスカが一番好きな、低く甘い声がする。
 少し躊躇い、アスカは枕元のスイッチを押した。こんな顔を見られるのが……どこ
からどう見ても嫉妬の炎を燃やしているようにしか見えない顔を見られるのが嫌だっ
たし、同時に一人であれこれ考えている時間が苦しかったし、その微妙なバランスが
ほんの少し後者に傾いただけだ。沈黙の長さは両者の距離に反比例する。
「よっ」
 相変わらずどこかだらしない格好の加持が、ドアごしに挨拶した。もう少しちゃん
としてほしいようでもあるし、この格好が似合っているようでもあるし、加持を見る
たびにアスカはその二律背反に悩まされる。
 加持はキョトキョトと周囲を見渡し、アスカに訊ねた。
「ん……と、ここ座ってもいいかな?」
「どうぞ」
 何か、変だ。普段の加持なら許可など求めず、空いた椅子に適当に座る。
 会話の接ぎ穂を探しているように見える。
 その疑念は、椅子に座った加持が特に何を言うでもなくぼんやりとベッドの上のア
スカを眺めている時点で、確信に変った。
「ん……え〜と」
 何か言いだそうとして、口ごもる。
「何の用、加持さん?」
 普段のアスカなら絶対に口にしない質問である。「加持さんが部屋に来てくれた」、
それだけでアスカは舞い上がってしまうのだ。
 普段なら。
「何か用があるように見えるかな?」
「うん」
「そうか、やっぱり見えるか……」
 バカみたいな会話だが、案外加持は真面目に受け止めているようだ。
 やがて意を決したように、ぽつりと。
「……アレックスと喧嘩したらしいじゃないか」
「……」
 アスカの頬が、ほんの僅かだけ震える。
「えらく落ち込んでたぞ、彼。『アスカが口きいてくれない』って」
 確かにあれから二日間、アスカはアレックスに出会っても完全無視どころか、殺意
さえ含んだ目で睨み付けている。視線に温度があるならばとうの昔にアレックスは燃
え尽きているか、身体の芯まで凍り付いているかのどちらかだろう。
 しかし、落ち込んでいるアレックスというのを一瞬見てみたい衝動にかられた。頭
の中ではうまい具合に想像できない。
 代わりに、アスカは訊ね返した。
「加持さんは……知ってたの?」
「ん?」
「アレックスが……その……ミズーリ司令の……」
 何でもない言葉が喉のあたりでつっかえる。もどかしさがあるような、飲み込んで
しまいたいような。
 代わりに加持が答えてくれた。
「息子……って、話だろ?」
「知ってたの?」
「小耳に挟んだだけだけどね。一年か、二年ぐらい前に」
「どうしてあたしに教えてくれなかったの?」
「プライバシーに関わるからね」
 それを聞いて、アスカの声が激した。
「違うじゃない!プライバシーでも何でもないじゃない!!あいつが司令の息子だっ
たら……エヴァの正パイロットは……」
 あとはうまく言葉にならない。
 不思議と涙は出なかった。涙は、ある時を境に流さない事にしたから。
 でもそれだけに、泣けない自分が哀しい。
 困ったような顔で言葉を捜している風な加持だったが、やがて少し真面目な顔で言
った。
「なあ、アスカ」
「何?」
「エヴァのパイロットってのは、人類の存亡を背負ってるんだ」
「知ってるわ」
 それはもう、嫌というほど。
「そんな重要な役目を、ただの肉親という理由だけでは決めないぞ」
「……」
 大人の理屈なら、そうだろう。そして同時に、アレックスがパイロットの資格に値
しない人間だったなら、そうだろう。
「……アスカ、そんなにエヴァのパイロットになりたいのか?」
「当たり前じゃない!」
 それしか知らなかった。
 「あの時」……草原を渡る風の時……から、アスカの頭の中、身体の細胞全てを占
めていたのはたった一つ。
 「エヴァのパイロットになる」事。
 それ以外の事は何一つ知らなかった。考えた事もなかった。
 アスカから「エヴァのパイロット」という言葉を取ると、そこには何も残らない。
 それが、恐かった。
 自分が自分である理由を失うようで。いや、事実失ってしまうのだろう。エヴァと
いう存在にのみ、己の全ての人生をつぎ込んだのだから。
 だから、パイロットになりたい。ならなければならない。
 ありとあらゆる手段を使ってでも、それこそ悪魔に魂を売ってでも、手に入れなけ
ればならない地位。
 それを、やすやすと奪われるわけにはいかない。
 アレックス・カーレンに、奪われてはならない。
「……奪われるもんですか」
 思わず口に出てしまった。押し込められた心からこぼれた言葉。
「……」
 そんなアスカを、加持は妙に落ち着いた視線で見ている。
 しばらくして、口を開いた。
「……なあ、アスカ」
「何?」
「その……変だと思わないか?」
「何が?」
 いきなり加持が何を言い出すのか、アスカにはちょっと理解できない。
「アレックスだよ」
 と言われても。
 これだけの言葉で分かれと言う方が、どだい無理というものだ。
「あのバカが、どうしたの?」
「いや、名前の話」
「?」
 アスカはもちろんだが、言い出した加持の方も不思議そうに首をかしげた。
「アレックス・カーレンとウィンストン・ミズーリ。親子なのに、なんでラストネー
ムが違うんだ?」
「……あっ」
 アスカは口を押さえた。
 語るに落ちたと言ってもいい。
 なぜなら、アスカもそうだから。
 アスカの「今の両親」は、アスカと違う姓を持っているのだから。
 誰よりも早く、アスカが気付かねばならなかった事実。
「そういえば……そう、ね」
 気付かなかった事を認めるのは口惜しいが、仕方ない。
「……ま、人にはそれぞれ事情があるって奴だな」
 身体の前に回した椅子の背にもたれかかり、加持は無精ひげでざらついた顎を撫で
た。
「事情……」
「生きてくってことは、嬉しい事と悲しい事の間に渡されたロープの上を歩くような
もんだ。そのロープってのはえらく頼りなくて、右へフラフラ左へフラフラ、一瞬た
りとも同じ側にいるって事がない」
 加持には数多くの欠点があるだろうが、その最たるものは「時々やたらと哲学的な
言葉を吐く」事だろう。まあアスカから見ればそれも「知的」という言葉にすりかわ
るのだが。あばたもえくぼである。
「……多分、あの親子にも何か事情ってのがあるんだろうな。離婚だか勘当だか知ら
ないけど、少なくともあの二人の間には、親子の情愛とかいうロマンチックな物は入
り込んじゃいないだろう」
 確かに、心当たりならある。
 普段はあまり感情を表に出さないアレックスが、ミズーリ司令の前では珍しく嫌悪
の表情を見せる。ひどく他人行儀な口をきく。
「加持さんは知ってるの?どんな事情があるのか」
「いや。俺はそこまであの司令に信用されてるわけじゃないし。あくまでも勘だよ」
「ふ〜ん」
 ならば、アスカはアレックスに信用されていないのだろうか。
 別に信用されても嬉しくも何ともないのだが、それはそれでちょっと腹立たしい。
難儀な乙女心という奴か。
「……ま、何にしてもだ」
 強引に話をまとめるような口調で、加持は言う。
「アレックスが司令の息子だからといって、それ即ち贔屓という事にはつながらない
だろう。世の中にはいろんな親子がいるってこった」
「……」
 多分、加持はアスカにこの言葉を言いたかったのだと思う。言うためにここへ来た
のだと思う。
 言葉自体は単純だ。だがアスカは、以前よりも少し呼吸が戻ってきたような気持ち
になっていた。
 言葉は記号以上の意味を持っている場合だって、あるのかもしれない。ごくまれに
だけれど。
「……あ」
 多分アスカは、「ありがとう」と言いたかったのだろう。だがその言葉は言葉にな
る以前に止まってしまった。
 そんなアスカを、加持は静かな、どこか暖かい瞳で見ている。アスカの言いたい事、
伝えたい言葉を全て分かっている顔で。
 だから、好き。
「最終テスト、明後日なんだろ?」
「うん」
「それまでに仲直りしとけよ、アレックスと」
「それは……」
 まだ、アスカはその自信がなかった。プライドが邪魔をしていると、言っていい。
 だが加持の言葉を聞いて、気持ちが少しずつ前進しているのは確かだ。
「何だったら本人に事情を聞いてもいい。多分アスカなら答えてくれると思うぞ」
「そ……かな」
「美人に頼まれて嫌と言う男なんていないさ」
 軽口を叩くと、加持はよっこらしょと立ち上がった。そのへんのじじむさい所を見
ると、少し年齢の差を感じてしまう。
 ドアの方へ向かいかけて、加持はふと振り返った。
「人間、後悔ってのは二種類あるの、知ってるか?」
「?」
「『やらなかった』後悔と、『やってしまった』後悔とさ。まあ時と場合によるが、
俺の人生経験から言うと、前者の方が後悔の度合いは重いな」
「同じやるなら……?」
「そ、やらなくて後悔するよりは、やって後悔した方がよっぽどいい。ま、陳腐な言
葉だけどな」
 その言葉を呟いた加持の表情は、少しだけ寂しそうだった。ほんの、見えるか見え
ないかというほどの薄い影だったが。
 この人にも後悔の重石という過去があるんだろうか。アスカはふと、そんな事を考
えていた。
 勿論訊ねる勇気はなかったし、たとえ訊ねたとしても恐らく答えてはくれなかった
だろうけども。
 加持が本当の心をさらけ出すには、アスカはまだ若すぎたのだ。
 それは、永遠に埋められない距離、だったのかもしれない。


「……ど〜しちゃったんでしょか?」
 頭をガリガリかきながら、アレックスは空を見上げていた。
 いや、厳密に言うと空ではない。
 空に向かって屹立する蕾に……まだ蕾だったのだ……語りかけていたのだ。
 物言わぬ向日葵に向かって語りかける少年。
 一種、怪しい光景に見えるかもしれない。
「間違いはないはずなんだけどなぁ……肥料やってるし、水やってるし、日差しはこ
れでもかってばかりにカンカン照りだし……。何がいけないってんだぁ?」
 と嘆いたところで、向日葵が答えてくれるはずもない。まるで頑なな子供のように、
黄金色の花びらは蕾の中に閉じこもっている。
「あのなぁ、俺ぁ忙しいんだよ〜。明日は正パイロットになるためのだなぁ、大事な
大事な最終試験が待ってるんだよ〜」
 どういう精神構造の持ち主なのか、どうやら向日葵を説得しているらしい。
「もしもだな〜、俺が最終テストでアスカに勝っちまったら、そのまま大急ぎで日本
に行かなきゃいけないんだよ〜。お分かり?」
 分かったなら大したものだ。
「だからお前の面倒も、そう長い間見てられないんだぞ〜。それまでに咲いてくれな
いと、俺の夢見が悪くなる。ほれ、あと少しだ。咲け、咲いちまえ」
 かなり無茶苦茶を言っている。はいそうですかと目の前でいきなり咲いてくれるは
ずがない。
「あのな〜、お前を蹴った不届き者はちゃ〜んと俺が仇討ってやったろ〜が。これが
かわいい女の子だったら、目をうるませて『ありがとう』の一言でも言ってくれるぞ。
……いや、別に俺は下心があるわけじゃないぞ。とにかく俺が言いたいのはだ、義理
が廃ればこの世は闇ということだ。せっかく手ぇかけて、身体張ってまで守ったんだ
から、せめて俺の目の前で咲いてくれよ〜」
 次はハンカチでも出して泣き落としにかかろうかと、ポケットに手を突っ込んだア
レックスだったが、
「……何してんの?」
 おずおずとかけられた一言に
「わぁっ!」
 と叫んで振り返った。
「び、びっくりさせるなよアスカぁ。気配もなしに俺の後ろに立つな」
「声、かけようかと思ったんだけど……熱中してたみたいだから」
 実際は、「あまりにも薄気味悪いから声をかけそこねていた」のだが。
「しかし後ろには立たんでくれ。撃てば当たるじゃないか」
 どうしても、この少年の精神構造は理解に苦しむ。顔を見ただけでは冗談か本気か
がいまいち掴めないのだ。
「……」
「……」
 少し、気まずい沈黙が二人の間を流れた。
 アスカは何かを言い出しそうで、言いにくそうで、言えなくて。
 アレックスは……何も考えていなさそうで。
 今日も陽射しは穏やかだ。螺旋を描いて緩やかに大地に舞い下りる。
 最初に口を開いたのは、アスカだった。
「……あ」
 言葉が形になる前に、アレックスが遮るようにかぶせた。
「座れよ」
 穏やかな顔だった。優しい顔だった。
 その言葉に従うのではなく、誘われるように、アスカは地面に腰を降ろしていた。
 アレックスは座らずに、ポケットに手を突っ込んだままアスカの顔を見るともなく
見つめている。
 沈黙が、先ほどよりは少しだけ落ち着いた沈黙が、緩やかに螺旋を描いた。
 次に口を開いたのは、アレックスだった。
「……悪かったな、言わなくて」
 父親の事だと気付くのに、一秒以上の時間はかからなかったと思う。
「構わないわよ、バカ」
 アスカの声は弱い。自分の方から謝ろうと思っていたのだが、機先を制された感じ
だ。
 しかしアレックスの言葉で、少し気が軽くなったのも確かだ。
「隠してたわけじゃないんだけど、あんまり話したくなかったからなぁ。自慢になる
でもなし」
「自慢に……ならない?」
「うん、ならない」
 にっこりと、アレックスは屈託のない笑い顔を見せた。


「俺……私生児だから」




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