向日葵

〜もうひとりのセカンドチルドレン〜



■ Third Act …… 風が通り抜けるだけ ■



Presented by 史上最大の作戦





 山の裾を、雲が流れていた。
 ここからだと、遠くの風景がよく見える。稜線は地平線に限りなく近づき、その境
界を雲が曖昧にしている。
 それはとても静かで、静かで、悪くない風景だった。
 人の営みとは無関係に流れる時間。悠久を感じる一瞬である。
 雲は雨に還り、そして水蒸気になって雲に戻る。その繰り返しの切り取り。
 NERVの屋上、その手すりにもたれかかり、アスカはぼんやりとその風景に視線
をさまよわせていた。
 だだっ広いコンクリートの屋上である。紙切れが数枚、風にあおられて転がってい
る。他に人はいなかった。遠くの方から声が聞こえるが、内容が聞き取れるほどでは
ない。風のたてるささやかな音の方が勝っているくらいだ。
 検査は思っていたよりも早めに終了した。そのまま講義に戻ってもよかったのだが、
何となく行きたい気分ではなかった。まあ要するに「サボり」である。
 普段は元気いっぱい、口数も多ければ手数も多いアスカだが、こういう瞬間を持っ
ているのもまた同じ「アスカ」である。
 どっちが本当の自分なんだろうと考えないでもないが、それは結論の出る問題では
ないし、そもそも考える事それ自体が無意味だ。
 思考は「母親」の方向へは動かなかった。それはたとえば夜、部屋の電気を全て消
した瞬間に訪れる物であり、今こうして太陽の燦々と照る場所では、そのイメージが
持つ影は薄れてしまう。
 思考を空っぽにする快感。何も考えなくていい時間は、宝石よりも貴重である。
 雲を動かす風は少しだけ下界にも差し伸べられる。アスカのオレンジ色のパーカー
は呼吸のように緩やかなリズムを取っていた。腰まであるご自慢の長い髪が同時に揺
れる。
「……ふぅ……」
 眼を閉じて風の動きを感じていたアスカは、心の底からリラックスした溜息を洩ら
した。
 エヴァの中は血の匂いがして、それがまるで胎内にいる赤子のような気持ちを与え
てくれるのだけれど、所詮人工的な安らぎにすぎない。
 こうして平原を地平線の果てまで眺めている方が、よほど気持ちがいい。
 特にエヴァに乗った後は。
 アスカはあそこに長い間いたいとは思わない。どこか精神が緊張して、乗っている
時間が長ければ長いほど、ストレスが加速度的に増えていく。
 放っておくと、自分自身の心を押しつぶしてしまうのではないかと思えるほどに。
(どうしてあたし、こんな所にいるんだろ……)
 冬のプールのような空っぽの心に(「ポスト・セカンドインパクト」世代のアスカ
は、冬という物を経験した事がないのだが)、ふとそんな気持ちが忍び寄ってきた。
 自分……って、何だろう。
 一旦思いつくと、その言葉は隙間だらけの心に遠慮なく入ってきた。
 自分って、何だろう。
 惣流・アスカ・ラングレー。14歳。ドイツ人と日本人のクオーターで、国籍はア
メリカ。エヴァンゲリオン弐号機のパイロット候補生。それも限りなく正パイロット
に近い存在。世界広しと言えども、この資格を持つ人間は自分を含めて4人だけ。
 日本にいるファーストチルドレン、サードチルドレン、自分、そしてアレックス。
(それが、自分……?)
 父親の記憶はない。母親は、発狂して自殺した。
(文字って……言葉って、記号なんだ……)
 お洒落が好き。雑誌のモデルに憧れて歩き方を真似したりするのが好き。リラック
スしてクラシックのCDを聴くのが好き。加持さんに誉めてもらうのが好き。
(あたしの存在も……記号なのかな)
 ブロッコリーが嫌い。蒸し暑い夜を過ごした後の自分の身体の臭いが嫌い。月に一
度来る生理の日が嫌い。自分の存在を脅かす存在が嫌い。だからアレックス・カーレ
ンは嫌い。女であることを必要以上にひけらかす女性が嫌い。だからフランシス・リ
ンネが嫌い。
(何だ、好きな物よりも嫌いな物の方が多いじゃない)
 ……それだけだ。
 自分の心の中をまさぐって、アスカが出した答えはそれだけだった。
(それだけ?惣流・アスカ・ラングレーを形作る物って、それだけなの?)
 言葉に直すと、アスカという存在はたったこれだけになる。何とも隙間だらけで、
ひどく寂しい存在。
 人間の存在って、その程度のものなんだろうか。多分そうなんだろう。
 14年という年月は、たった数行の言葉でおさまってしまう。キンポウゲの草原を
駆け抜けた思い出も、母親の死体を見つけた時の記憶も、「言葉」という物の前では
本質から外れた物として分類されてしまう。
 本当は、アスカという人格を作るのに必要で、重要なパーツなのに。
 だから言葉は嫌い。言葉で全てを表現して、表現したと思いこんでいる傲慢な人間
が嫌い。その人は、物が持っている本質を薄っぺらい物に変えてしまうから。
 アスカは、両腕で肩を抱いた。
 セカンドインパクト以降地球の平均気温は軒並み上昇し、ヨーロッパでも緯度の高
い場所にあるこのNERVドイツ支部も「常夏」と化している。
 それでも、妙に自分の肩が寒くなる瞬間というのは、確かに存在するのだ。
 ぎゅっと、アスカは瞼に力をこめた。
 その時、背後から。
「……あれぇ?」
 線が何本も抜けているような声がした。一瞬のうちに、ひどく感傷的だったアスカ
の気持ちがガラガラと崩れる。
「なぁんだ、もう検査終わったんだぁ。……あれ、あ、サボりだサボり。司令に言っ
てやろ」
「……うっさいわねぇ!」
 振り返るや否や、アスカはいつの間にか背後に立っていた少年に怒鳴り散らした。
相手が誰であるかは言うまでもないだろう。
「まあそう怒鳴るなよ、実は俺もサボりなんだ。ディックのおっさんの講義があまり
につまらんから、中休みに抜け出してきた。まああのおっさんにバレるとは思わんけ
ど」
 決して自慢になることではない事を胸を張って言うと、アレックス・カーレンはフ
ラフラとアスカの隣に立った。
「や〜、今日もいい天気だなぁ」
 と言うアレックスの声の方がよっぽど「いい天気」である。
「何しに来たのよ?」
「まあまあまあまあ、そう怒鳴らずにさぁ」
 考えてみれば、アスカは何でもないのにこの少年に怒鳴ることが多い。強いて言え
ば「話し方が気に入らない」のだが、何となく会話や思考のペースが合わないのが腹
立たしいのだ。
 そして目の前にいる「万年マイペース男」は、ふらふらと手すりにもたれ掛かった。
その姿はひどく頼りなくて、風が吹いたら落っこちそうに見える。見ていて落ち着か
ない。
「いや〜、ここって俺だけが知ってる穴場かと思ったんだけどなぁ、先客がいたか」
「穴場?」
「そ。NERVで一番見晴らしのいい所なんだぜ、ここ」
「……へぇ、あんたでもそんなロマンチストな所あるんだ」
「その事に賛成することにはやぶさかないが、あんた『でも』とはどういう意味かね、
ミス・ソウリュウ」
 わざとらしくしかめっ面をしたアレックスの顔が面白くて、ついアスカは笑ってし
まった。
 ぱっと見には平均ラインを遥かに超えた、いわゆる「美少年」なのだが、そうであ
ることを忘れさせるほどにじじむさい表情を見せる。アスカが唯一認めている、アレ
ックスの好きなところだった。
「な〜んも考えなくていいもんな、ここへ来ると」
「ん?」
「いやさ、ここでぼんやりとしてたらさぁ、もう空っぽ。エヴァのことも使徒のこと
も何も考えなくていいんだもんなぁ。すっげぇ穴場だぜ、ここ」
 それはアスカも同時に感じていた事だったが、普段からあまり何も考えていなさそ
うなアレックスが言うと、言葉に全く重みがない。
「ここ、今までも何遍か来たことあるの?」
「そりゃぁもう。常連だぜ、俺」
 それは知らなかった。アスカも何度かここへは来たことがあるのだが、一度も出会
った事はない。
「ふぅん」
 気のない返事だが、アレックスの表情には気にした風はない。
 手すりにもたれた格好は崩さずに、アスカの顔に視線を向けずに、アレックスは呟
くように話しかけた。
「……なぁ、アスカ」
「何よ」
「何でお前、エヴァに乗ってるんだ?」
「どういう意味?」
「いや、エヴァに乗る理由」
「……?」
 その声はいつも通り、まるで微かな風のように落ち着いて、静か。
 だが、どこかいつもと違う。どこが違うのか、正確に言うことはできないのだけれ
ど。
 アスカは横目で、隣に立つ少年の横顔を見た。
 時々ひどくじじむさい事を言うアレックスだが、顔を見ると明らかにどこから見て
も「少年」だ。白い肌には染みひとつないし、アスカが人知れず苦労しているそばか
すも、彼には全く無縁の代物だ。
 翡翠色をした瞳は澄んでいて、こうして自分の方を向いていないのに、ともすると
吸い込まれそうになる。
 無理に視線を引き剥がすと、アスカは
「あんたバカぁ?」
 と、口癖のようにいつも口にしている言葉を放った。初めてアレックスの眼が、彼
女の方に向く。それは苦笑の影をたたえていた。
「……バカかな、やっぱ」
「バカよ。何でエヴァに乗るのかって、あんたずっと年中そんなことばっか考えてる
わけ?」
「年中とは言わないけどさぁ、まあちょくちょく」
「あっきれたぁ。覚悟不徹底ね」
 その言葉に、少年は少しだけしかめっ面をした、かもしれない。
「じゃあアスカは何でエヴァに乗るんだ?」
「決まってるじゃない……」
 と言いかけて、不意にアスカは黙り込んだ。
 フラッシュバック。
 キンポウゲの草原。
 そこを走る、全力で走る、自分。
 視点はずっと低い。時々背の高い草が視界をふさぐほどに。
 そして、扉。草原の中に忽然と現れる、扉。
 きしみ声。ゆっくりと開く扉。
 ゆらゆら、ゆらゆら。
 風に揺れる、母親。
「……」
 アスカは、懸命に自分の口と心にブレーキをかけた。自分だけが知っている、自分
以外の人間には知られたくない、過去。
 この少年は、危険だ。何も考えてないようで、自分の心の隅から隅まで覗き込もう
としている。また、それができる。
 言っちゃ駄目。
 代わりに口からこぼれたのは、本心でないとは言わない、だが決して本心そのもの
ではない言葉だった。
「……決まってるじゃない、あたしの存在を認める、みんなにあたしの存在を認めさ
せるために乗ってるのよ」
 認めてもらいたい。それは嘘じゃない。
 だがそれは「みんな」ではない。
 たった一人の人間に認めてもらいたいだけ。
 自分の「ママ」であることを放棄したままこの世から逃げ出した、たった一人の人
間に認めてもらいたいだけ。
 でないと、自分がなくなってしまいそうだから。
 いてもいなくても同じ、生きていくのにこれほど怖いことがあるだろうか。
 懸命に表情を取り繕うアスカ。頬の筋肉を震わせないように最大限の力を振り絞る。
 横目でそのアスカを見たアレックスだが、別に気付いた節は見受けられない。ある
いは、気付いても気付かないふりをしている。どちらかは、よく分からない。
「……強いな、アスカは」
 ポツリとそれだけを、口にした。
 分かってない。あるいは、分かってないふりをしている。
 アスカは強くなんかない。
 誰よりも弱い。弱すぎるから、強く見せようとしている。それだけ。
 しかし隣の少年は、そんなこと百も承知という顔をしている。その事がひどく癇に
障った。

 少し逆襲したくなる。
「んじゃさ、アレックス」
「ん?」
「じゃ、あんたは何でエヴァに乗るの?あんまり似合ってる感じ、しないけど」
「それは同感だなぁ」
 冗談ではぐらかそうとしたようだが、アスカの目を見て諦めたようだ。ついと視線
を外すと、少しだけ口を尖らせて風景に目をやった。
 しばらく無言が流れる。雲と同じ速度の沈黙。
 そしてアレックスは、ポツリと呟いた。言葉を選び抜いた結果のように。
「……俺はエヴァが嫌いだ」
「?」
 首を傾げるアスカ。
「エヴァは嫌いだ。エントリープラグの中も嫌いだ。俺は長い間、あそこにいたいと
は思わない」
 その言葉を聞いた瞬間、不意にアスカの神経に火がともった。
「じゃあ降りればいいじゃない!あんたなんかいなくたって、あたしがいれば『使徒』
なんてイチコロよ!いやならさっさとパイロット辞めればいいじゃないの!!」
 自分でも不思議なくらい、腹が立った。
 こんな男に、こんな情けない男に負けたのか、あたし。
 不甲斐ない言葉を吐く少年と、そんな少年にかなわなかった自分に、猛烈な怒りを
感じる。
 同時に、感じていた事。
 あたしと同じ事考えてる、こいつ。
 アスカも、エヴァに長い間乗りたいとは思わない。長引けば長引くほど、「あそこ」
にいる時間は、苦痛の時間になる。
 自分と同じ人間が嫌いということは、自分が嫌いということ?
 だからアスカは腹が立つ。
 今度はまじまじと、アレックスはアスカの顔を正面から見た。
「……それができればいいんだけどねぇ」
 少し苦笑いと一緒に、この茫洋とした少年はアスカに告げた。
 苦笑い?
 ……少しだけ、ほんの少しだけ、泣きそうな顔してなかった、今……?
 怒りの気勢がそがれた。少し身じろぎするアスカ。
 だがアレックスはすぐに表情を隠すと、踵を返した。
「ちょいと用事思い出した。また後で」
「あ……」
「あんま長居するんじゃないぞ。いくら気温高いってったって、風きついからな」
「……」
 TシャツにGパンという非個性的な格好のアレックスは、そのまま風に吹かれるよ
うにフラフラと屋上を立ち去る。
 建物全体に渡って電動化されているNERVだが、さすがに屋上の出入口までは及
んでいないようだ。鉄扉の閉まるガチャンという音が屋上全体を渡る。
 そして、何事もなかったかのように、だだっ広い屋上にはアスカ一人がが取り残さ
れた。
「……なぁによ、あいつ」
 吐き捨てるようにアスカは言葉を風の中にぶちまける。
 呟いてから、気が付いた。
 結局、アレックスから「エヴァに乗る理由」を聞きそこねた事に。



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