NEON GENESIS EVANGELION
ALTERNATIVE STORY
IF THE MOON WERE GOD
Prologue

 プロローグ




 第3新東京駅近くの交差点。デパート正面にかかるからくり時計が午前10時を告げる。あたりに人影はない。

 そして、碇シンジはとぼとぼと歩いていた。

『行かなきゃ』

 そうは思うもののあてがあるわけではない。ただなんとなく、突き動かされて足を運んでいた。

 蝉の声で満たされた道路を渡り、坂を上る。

『行かなきゃ』

 なぜ?

『きっと待ちくたびれてるから』

 誰が?

『決まってるじゃないか』

 本当に?

『当たり前だろう! だから!…………』

 ふとシンジは立ち止まる。

 誰が……待ってるんだったっけ?
 それより、そもそもどこへ行こうとしてたんだっけ?

 ひどく曖昧な記憶。そのくせ、いやにはっきりとした意志。

『えと……あれ?…………』

 気がついてみれば、昼間にこんなところにいることもおかしい。理由もなく学校をさぼるような度胸はないし、休日にしては人通りが少ない。いや、少ないのではなく全くない。いくらなんでも駅前は繁華街になっているので、そんなことがあるはずがない。

『何で僕はこんなところに……』

 不意に蝉の声が途切れ、鳥の群れが空中に現われる。彼らは、驚きの余り声も出せずにいるシンジに構わず空高く飛び去っていった。

『な、何? 今の?』

 うろたえるシンジを顧みることなくあたりは再び蝉の声で満たされる。

『ど、どうなってんの?』

 シンジは、呆然として空を見上げるが、雲がゆったりと流れているだけで、鳥の姿は見えない。妙な予感を感じて、シンジの額に汗が浮かぶ。

碇くん…………

 え? 唐突に自分を呼ぶ声。はっとして振り替えったその先、道路を隔てたところに、彼女がいた。

 光の加減で、蒼色にも見えるプラチナの髪。あらゆる色彩を拒みきった白い肌。瞬きひとつしない、まるで血の色を思わせるような真紅の瞳。シンジには、それが目眩がしそうなほと現実離れした容貌に見えた。

『きみ……誰?』
心配いらないわ。あなたは私が守るもの

 囁くように少女は答える。

『守るって、何か危ないことでもあるの?』
約束の地は用意されてしまった

無感動な口調。

『え?』
カナンを目指して彼らはやってくる

何も伺い知ることのできない視線。

『それって……何のこと?』
だけど彼らにはアークがない

 シンジの問いには答えず、淡々と平板に言葉を紡ぐ。

『ね、ねぇ、何か起きるの?』
でもそれは人間も同じ

 虚無を纏ったかのような空気。

『あ、あのさ。君が何を言ってるのか、わかんないよ』
私にできるのは、あなたを守ること……

 相手にされているのかいないのか、よくわからない状況に苛立ちを覚え始めたとき、彼女の容貌が現実離れしているその原因が、恐ろしいほどの無表情にあることにシンジは思い至った。

『あ、あの……』
それじゃ……
『え?』

 伝えたいことは全て言ってしまったといわんばかりの態度で、彼女はその場を立ち去ろうとする。

『あ、待って!』

 慌てて後を追おうとしたが、道を渡ろうとして左右を確認したその間に彼女の姿は消えていた。

『そんな馬鹿な』

 そんなすぐに身を隠せるような場所もないし、裏道へ通じるような角もない。まるで不意に消えてしまったような立ち去り方である。 思わず薄気味悪くなって、その場を離れようとしたところに、再び声が聞こえた。

『シンジ…………』

 慌てて周囲を見回すが、誰もいない。

『シンジ……』

 こ、今度はなに?……

 思わずびくびくと後ずさる。だが、先ほどの女の子とは違って、どこかで聞いたことがあるような声……

いつまで寝てんのよ! こぉのバカシンジィ!!

 いきなりの雷鳴のような声で…………シンジは目が覚めた。


 碇家の朝は早い。いや、正確に述べるならば、碇家を取り仕切る「碇ユイ」の朝は、早い。およそ惰眠を貪ることを至上の命題としている夫と息子のために朝食を整え、お昼のお弁当を用意し、洗濯物をこなし、ちょっとした繕いものを仕上げる。その合間にデリバリーサービスへ発注すべき品目をリストし、メールを打つという按配である。

「それでも最近は、アスカちゃんが手伝ってくれるから、随分余裕が出てきたわねぇ」

 アスカ。惣流・アスカ・ラングレー。ユイの親友、惣流・キョウコ・ラングレーの一人娘。出張や泊まり込みの多いキョウコに代わって、ユイがアスカの面倒を見始めたのは、まだアスカが6歳のとき。爾来、アスカは、自宅よりも碇家にいる時間のほうが長いというくらい、ユイになついている。

 この二人のおかげで、碇家の家政は完璧に運営されている。碇家の主とその息子に任せると、1日で、家が腐海の奈落へ沈み込むとは、アスカの弁である。

 閑話休題。今日もいつものようにユイが家事を始めたところへ、いつものようにアスカがやってきてそれを手伝い、それも一段落したところで、これまたいつものようにアスカがシンジを起こしに行く…………つまりは、碇家のいつもの朝が始まっていた。


 綾波レイの朝は……遅い。おまけに昨日は引越しで、夜遅くまで荷物の整理をしてたものだから、とりわけ今朝は遅かった。目覚ましが鳴り始めても目が覚めず、目覚ましが鳴り続けても爆睡し、目覚ましが力尽きようとする頃にようやくベッドの中でもそりと体を動かす有り様であった。

「…………」

 それでもしつこく自分の勤めを果たそうとする目覚まし。

「…………」

 唐突にレイが体を起こす。やれやれこれでお勤めは終わりだな。と言わんばかりに目覚ましの音が弱々しくなる。レイは、枕元にあった本を取り上げると、目覚ましめがけて、いきなり投げつけた。目覚ましは完全に沈黙する。

「んふふふふ」

 不気味に寝ぼけた笑いをもらすと、ばったりとベッドに倒れ込み、すうすうと柔らかい寝息をたて始める。

 綾波レイの朝は、まだ始まらなかった。


「いつまで寝てんのよ! こぉのバカシンジィ!!」
「うわぁ!」

 ガン!

 いきなりシンジが飛び起きたので、まともに頭突きを受ける形となり、アスカはその場にうずくまってしまう。で、シンジはと言えば、こちらも相当痛かったのか、目にうっすらと涙を溜めて頭を抱えている。

「あ、あんたねぇ! な、何考えてんのよ!……イタタ……」
「仕方ないだろう! 吃驚したんだから!……テテ……」
「だからっていきなり飛び起きることはないでしょう!……まだ痛い……」
「大体、アスカが怒鳴るから……」
「何言ってんのよ! いつまでも起きないあんたが悪いんでしょ!」
「何言ってんだよ! 顔近づけてたアスカが悪いんだろ!」
「なんですって!?」

 ぱぁぁぁぁん!!

 小気味良いビンタの響き。

「それが、毎朝起こしに来てあげてる優しい幼馴染に対する口のきき方!?」
「それとこれとは……」
「大体、一人じゃ遅刻しないように起きることもできないくせに、何考えてんのよ!」

 痛いところを突かれるシンジ。実際、アスカが週番で朝早く出かけなくてはならない日など、まず間違いなく遅刻するのだから反論のしようもない。

「こぉんな美少女と幼馴染だっていうだけで感謝すべきなのに、その上その美少女に毎朝起こしてもらえて何が不満ななわけ!?」
「いや、不満はないけど……」
「だったらさっきみたいな口答えができるはずがないでしょ!」
「だから! そういう問題じゃ……」
「で・き・る・は・ず・が・な・い・で・しょ!」
「はい……」

 力なくうな垂れるシンジ。昔からアスカと口論してシンジが勝てたためしはない。

「でも何だってあんな近くにかがみ込んでたんだよ……」

 ぽつりと漏らしたシンジの一言に、アスカは顔を伏せる。微かに肩が震えている。

「あ、あんたがいつまで経っても起きないからよ! それより、いい加減にベッドから降りなさいよね。私まで遅刻しちゃうじゃない!」

 言いながらシンジの布団をはぎとり……そのままの姿勢で固まる。

「アスカ?」
「いやぁぁぁあ! エッチ! バカ! ヘンタイ! 信じらんない!!」
「へ?」

 パァァァァァン!!

 本日2度目のビンタが綺麗に決まったところで、アスカは顔を真っ赤にして部屋を出ていった。 呆然としてそれを見送るシンジ。ややあって視線を体の方に落とすと、力なく呟いた。

「しょうがないだろ……朝なんだから……」


「何やってるのかしら、あの二人」

 台所で洗い物をしながら、呆れたようにユイは呟いた。

「それにしても、シンジも情けないわねぇ」
「ああ」

 視線を新聞に落としたまま、碇ゲンドウは、返事を返す。

「毎朝毎朝、アスカちゃんに起こしてもらうまで寝てるんだから」
「ああ」
「起こしてもらうのが嬉しいのかしら?」
「ああ」
「そのくせいつも喧嘩してるし」
「ああ」
「あなた、わかってて言ってます?」
「ああ」

 やれやれ。ユイは肩をすくめると、矛先をゲンドウに向ける。

「あなたもさっさと食べて、出かける用意をして下さいね」
「ああ」
「あなたが遅刻したら、私が冬月先生からお小言を言われるんですから」
「君はもてるからな」
「馬鹿なこと言ってないで、さっさと支度して下さい」
「ああ」

 と言いつつ新聞を読みふけるゲンドウ。

「あなた」

 ユイの言葉に殺気がこもる。ぴくりと肩を震わせて、ゲンドウが恐る恐る新聞から目を上げると……額に青筋を立てながら笑っているユイの顔があった。

「もう8時なんですけど、あ・な・た」
「そ、そうか。う、うむ。わ、わかった」

 慌てて新聞を畳み、立ち上がるゲンドウの額に汗が一筋流れる。

「ほんとにもう、いい年してシンジと一緒なんですから」

 ユイがゲンドウを急かそうとした、その時。

『いやぁぁぁあ! エッチ! バカ! ヘンタイ! 信じらんない!!』

 パァァァァァン!!

 アスカの悲鳴と平手打ちの音。

 思わずユイとゲンドウは顔を見合わせ……示し合わせたようにニヤリと笑った。そこへどすどすと足音を立てながら顔を真っ赤にしたアスカが入ってくる。

「いつもいつもごめんなさいね、アスカちゃん」
「え? あ、いえ! 私が勝手にしてるだけですから」

 シンジに対する態度とは打って変わったしおらしい様子でユイに答える。

「そぅお? でも、シンジに何かされたんじゃない?」
「え? いえ、別に何も……」
「だって『エッチ! バカ! ヘンタイ!』って」
「あ、あれは!……」

 先ほどの光景を思い出してますます赤くなるアスカ。再度顔を見合わせてニヤリと笑うゲンドウとユイ。

「いつも世話になってるくせに、不埒なことをするとは許し難い。ここはひとつ、お仕置きが必要なようだな」
「あ! おじさま! だから、違うんです!」

 アスカは、険しい顔をして部屋を出ていこうとするゲンドウを慌てて押しとどめる。

「あの、本当に違うんです。別にシンジが何かしたってわけじゃあ……」
「しかし、ここにも悲鳴が聞こえたぞ。何も気を遣うことはないんだよ」
「いえ、ですから。その……」

 まさか、シンジのアレ……が、ああなってて……で、吃驚したなんて……そんなこと言えない!

「ひょっとして……そう、そうなの」

 ユイがぽつりと言葉をもらす。その口調にいやな予感がして、アスカはそろそろとユイの顔を見た。眉間にしわを寄せて難しい顔をしている。

「とても私たちには言えないようなことをされたのね」
「ち、違いますー!」

 ゲンドウとユイが二人してふむふむと頷きあう。

「だから! 本当に何でもないんです! 私が勝手に騒いだだけで! あの!」
「本当?」
「本当です!」
「じゃあ、これからもシンジの面倒みてくれる?」
「あ、も、もちろんです!」
「ずぅっと?」
「は、はい!」
「そう、よかったわ」
「え?」

 見ればユイもゲンドウもにんまり笑っている。

「これで安心ねぇ、あなた」
「うむ」
「よかったわぁ。アスカちゃんがシンジの面倒を『ずぅっと』みてくれるなんて」
「え? え?」
「ああ。めでたいことだ」
「え? え?」
「これで私たちはいつ死んでも安心ですね」
「ああ。問題ない」
「あ、あの、おばさま? おじさま?」
「でも、アスカちゃんみたいないい子がシンジのお嫁さんになってくれるなんて、本当、良かったわぁ」
「ええーっ!?」

 呆然とするアスカを尻目に二人は、式を神前にするか教会でするかとか、お披露目はどうするとか勝手な話で盛り上がっている。

「お、おばさま! おじさま!」

 放っておいたら、本当に結婚させられそうな気がして、アスカが抗議の声を上げる。

「あら、いや?」
「いやとかそういうことではなくて」
「でも、一生シンジの面倒をみてくれるってさっき……」
「あ、あれは言葉の綾で! だから!」

 そこまで言ってアスカは、まだ二人がにやにやと笑っているのに気がついた。

「おばさまぁ〜」

 思い切り情けない声を出して、がっくりと肩を落とす。からかわれただけだということに、やっと気がついたのである。

「どうしたの?」

 そこへ着替えと洗面をすませたシンジが入ってくる。思わず赤くなって俯くアスカ。

「何だか楽しそうな声が聞こえたけど」

 お気楽に尋ねるが、ユイもゲンドウもにやにや笑うだけで答えない。アスカは黙って鞄を持つと、シンジの襟首を掴んだ。

「シ、シンジ! 学校行くわよ!」

 まだ顔が赤いまま、シンジを玄関に引っ立てていく。

「え、だってまだ朝ご飯食べてない……」
「もうぎりぎりなの!」
「でも、朝ご飯……」
「あんたがいつまでも寝てるのが悪いんでしょ!」

 返す言葉もなく、シンジはずるずると引きたてられていった。

「それじゃあ、おじさま、おばさま! 行ってきま〜す!」
「行ってきます……」
「ほぉら、急ぐの! んっとにとろとろしてるんだから!……」
「わかったよ、もう。ホントにうるさいんだから……」
「ぬわんですってぇ!?」

 バチィィィィィン!!

 やがて扉が閉まる音がし、アスカとシンジの声は聞こえなくなった。後には、思い切り大笑いするユイとゲンドウの声がするばかりだったという。

 時に午前8時15分。

 ちなみに、ユイとゲンドウは大笑いしているうちに、完全に遅刻することとなったという。


 右手にトースト、左手に鞄を持って、レイは突っ走っていた。惰眠を貪った報いである。

「どわぁぁ! チコク、チコクぅ〜!」

 わずかに寝癖が残った蒼色の−いや、光の加減でそう見えるだけで実際はプラチナの髪と真紅の瞳を持つ少女に道行く人が振り返るが、本人はそんな視線を気にしている場合ではないようだ。

「初日から遅刻じゃ、かなりヤバイって感じだよねぇ〜!」

 とか言いながら、右手に持ったトーストを器用に頬張り、むぐむぐと食している。余裕があるのか、食い意地が張ってるだけなのか、よくわからない。

「やっぱし、引越しの次の日に転校なんてやめとけばよかった〜〜!」

 嘆いてみるがもう遅い。とにかくここは走るしかない。が、ひたっとレイの足が止まる。

「ここ…………どこ?」

 どうやら道を間違えたらしい。

「やっぱりちゃんと下見しとくんだったぁ!」

 叫びながら今来た道を慌てて戻る。

「学校まで1本道だって話だったのにぃ〜〜」

 自分が方向音痴であることなど棚に上げて逆恨みに入るレイ。それでもトーストをしっかり食べてしまったのは流石である。

「ど、どっかに標識はないの! 標識! 標識や〜い!」

 と叫びつつ2枚目のトーストを一口頬張る。

「標識!……標識!っと……ひょうしきぃ〜…………あ、あったぁ!」

 前方の交差点にポツンと立つ標識がひとつ。「←第1中学校」の文字が見える。ああ、神様ありがとう! いたいけな私に残酷な天使も窓辺からこんにちはよぉ〜!と意味不明な感謝の言葉を標識の神に捧げた後、レイはトーストをおもむろに口にくわえると、猛然とピッチを上げた。
 翼よ、あれが希望の灯だぁぁぁぁ!と心の中で叫びつつ、不条理なUFOの如きスピードで標識の立つ角を曲がる…………もとい、曲がろうとして、何かに派手にぶつかった。


「そういえば、今日転校生が来るんだよね」
「そうね」
「最近、多いね」
「来年遷都だから、どんどん人が増えてるんじゃない?」

 シンジとアスカも走っていた。走りながら会話を交わすというのも結構辛いものがあるはずなのだが、二人とも苦にしている様子はない。小学校に入学した時から走って通学しているので、体が鍛えられているのかも知れない。

「でも今度はどんな子なんだろうな」
「!……」
「可愛い子だったらいいなぁ」
「!!…………」

 いきなり不機嫌になるアスカ。そもそも、転校生が女の子だと決め付けているのが気に入らなかったりする。それ以上に、シンジが勝手な妄想で鼻の下をのばしていることに腹が立ったりする。

「何考えてんのよ、スケベ」
「な、何でスケベなんだよ」
「スケベなこと考えてるに決まってるわよ!」
「何でだよ!」
「大体、いつ転校生が女だって決まったの!」
「そ、それは……」

 だったら嬉しいからとは口が裂けても言えないシンジであった。

「ほら見なさい! だから今朝だってあんな風になるのよ!」
「そんなの関係ないよ!」
「嘘ばっか! ほんっと男ってスケベばっかなんだから!」
「そんな風に考える方がやらしいだろ! スケベなのはアスカじゃないか!」
「な! なんですってぇ!」

 いくらシンジが鈍くてもここでまたビンタを食らうだろうということくらいはわかる。そこでピッチを上げてアスカを振り切ろうとしたのだが、それが悪かった。丁度角から飛び出してきたものと正面から派手にぶつかったのである。


 目の前に星が飛んでる〜。くらくらする頭を振りながらシンジが目を開くと、何やら白いものが見える。何だろうと思いながらじっと見ていると、突然、それが何かに遮られた。

「ごめんねぇ! マジで急いでたんだ! じゃぁねぇ!!」

 続いて頭の上からその言葉が降ってきて、走り去る足音が聞こえた。顔を上げると、見慣れない制服の背中とプラチナの髪が見えるばかり。

「あ…………」

 今朝方の夢を思い出して、シンジは、はっとする。プラチナ色の髪、真っ赤に染まった瞳。あなたは私が守るもの…………

「ほら。遅刻するわよ」

 小さくなっていく後ろ姿を見つめたまま、差し出された手を掴んでシンジは立ち上がった。ふといやな空気を感じて振り返ると、アスカが睨んでいる。

「随分ご執心のようですわね、シンジ様?」

 いやな空気は、思いっきりいやな気配に変わる。慌てて走ろうとしたが、腕をがっちりと掴まれていて、逃げることができない。

「誰がスケベなこと考えてないって?」
「な、なに?」
「どさくさまぎれに女の子のスカートの中をじっと見てる奴が、スケベなこと考えてない?」

 ということはさっき見えた白いのは…………そこでしらを切ればいいものを、シンジは、思わず顔を赤くする。

 ぶちっ。

「ア、アスカ? ぼ、暴力は……」

 ぶわっちぃぃぃぃぃん!!!

 所詮、シンジはそういう運命である。合掌。


『朝ご飯が雀の餌になっちゃったよぉ〜!』

 んなことを嘆きながら、レイは走っていた。

『うぉのれぇ、今度会ったら、トーストさんの仇は絶対とってやるんだから!』

 パンツを見られたことはどうでもいいようである。

『でもちょっと……可愛かった……かな?』

 全力で疾走しながら、ふと頬が赤らんだりする。結構な時間走りつづけているので既に顔が赤く、傍からはよくわからなかったりするのだが。

『いやいや、トーストさんの無念を忘れてはいけない!』

 どこまでも食い意地が張っている。結局、食べ損ねたトースト1枚に思いを馳せながら、レイは校門を駆け抜けた。


『遅いぞ、碇』
「申し訳ありません。E-計画に一部修正を要する箇所があったものですから」

 動揺を全く感じさせない−冷静というより慇懃無礼な声でゲンドウは答えた。

『重大なものか?』
「いえ。チルドレンに関する情報に些細な欠落があっただけでした」
『そうか』

 苛たしげな舌打ちが微かに響くが、ゲンドウの気配に変化はない。

『ファーストチルドレンはどうした?』
「既に確保してあります」
『E-計画はチルドレンが要だからな。慎重に頼むよ、碇君』
「心得ております」
『補完計画の方の進捗はどうかね』
「後程報告書を提出いたしますが、アダムセクションに2%の遅れが出ているほかは予定通りです」
『アダムセクションか』
『さして重要なプロジェクトではない。その程度では問題にならんだろう』
『さよう。肝心なのは、アークだよ』
『ともあれ、計画が順調であれば問題ない。下がっていいぞ、碇』

 不意に部屋から気配が消える。暗闇の中に、照明灯で照らされた碇ゲンドウの姿だけが残る。

「E-計画の一部修正か」

 腰掛けたままの碇ゲンドウの背後で苦々しい口調の呟きが漏れた。

「息子のガールフレンドをからかっていて遅刻したとは委員会も想像できんだろうがね」
「…………冬月」

 ゲンドウが何か言いかけたその時、デスク上のヴィジフォンが鳴った。

『零号機の調整が完了しました』




第1話 足音は未だ遠く [A-PART] へ続く
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