大阪は今日も晴れ雨曇りにわか雪
極私的日記風味身辺雑記

4月23日(木) なんか体調が回復しないのにぐずぐずした天気で腹立つぞっっ!(^^;)


きっと寂しいのだろう
花萌ゆる頃だと云うに
人肌の恋しいのは

 雨の日というのは、どうも気分がいつもと違ってしまう。人恋しいような苛立たしいような不思議な気分。自分が何を望んでいるのか、ふとわからなくなる逢魔が時のような妖しい気分にさせられてしまう。何だか仕事もいつものようには手につかず、小説を書く気にもなれず、コンピュータにも余り向かわずにぼんやりと過ごしてしまいがち。人はなぜ愛せないのかという問題を考えるのは、多分こういう気分と関係してる。少なくとも俺にとっては。

きっと悲しいのだろう
水温む頃だと云うに
人肌の恋しいのは

 男にとって理想の女性とは、永遠の母親だという事実は、最近案外と見過ごされている。というより、意図的に無視されてるよね。マザコンってレッテル貼って、それを撲滅しようとしてる風にも見える。現在の女にとっては甚だ都合のいい――つまり、男に奉仕させて自分はのうのうと女王様を気取ってられる下地を作るのに。

はらはらと雨が空から落ちる
そんな日は街が静かに微笑して
物憂げにかいなを広げたまま

 病的なのはともかく(あれは男から見ても気持ち悪いというか、乳離れしてない奴が男として自分と同列に見られるのが腹立つというか)、よく考えるとマザコンの何がよくないのか、全くもってその根拠がないことに気がつく。本当の問題は、母親が、つまり女が子供をペットにして子離れしないことにある。女性至上主義に洗脳された今時の腑抜けのような男共には反発しかされない言い方だけどね。子供は天使だみたいな気持ち悪い思想を広める腐った男が増えてるなと思ってたら、女性はマリアだみたいな犯罪的かつ反社会的な思想に染まってたとは。世も末だね。そういう女性やそういう子供もいるんだろうけど、無条件賛美ってのがナチスより性質が悪い。非国民、亡国の輩の類だよ。

置き去りにした恋が
そんな日は誰とは無しに囁きかけるのだ
愛した証と云えぬまでも
確かにその日々はあったのだと

 女に政治を任せたら戦争がなくなるなんて、根拠も糞もないことを言ってた馬鹿運動家がいたが、嘘っぱちもいいとこで、大体3人寄ったら揉め事を起こすのは女なのだ。主婦感覚なんてのも同様で、んな台所感覚かなんか知らんが、無知蒙昧も甚だしくて、そんなセンスで経済を扱われたら、日本なんかあっと云う間に滅亡する。何のことかわからん奴は、それだけで成人男子の義務を果たせないことを暴露してるも同然だから、さっさと選挙権返上して、首を括りなさい。
 性的過程で主導権を握るのは女の方で、そのことに異議はない。そこまで異議を唱える奴は単なる馬鹿に過ぎない。でも社会過程まで明け渡して、一体どうするつもりなんだろう。それは無責任とか云ってすまされる問題じゃない。

仄かにうなじを光らせて
それはゆったりと翼をはためかせる
瞳に夜を宿しながら
吐息を残すのだ

 女は家庭に閉じこもってればいいと言う男は屑人間以下だけど、実際、女性にその席を譲った方がいい男が一山幾らで跋扈してるわけだけど、自意識を暴走させた挙げ句、対象性を失ってしまった女性にまともな恋愛などできるわけもなく、そういう女性に媚びへつらう男にまともな恋愛などできるわけもなく、だから愛することが忘れられ、物語は幻想になっていく。

きっと愛しいのだろう
甘い匂いでくすぐられ
かつて見た明日を見つめるのは

 雨の日は、人を閉じ込める。おそらくそれは太古からの記憶。内省の時間を強制する空間。だからかも知れない。そんなことを考えた。

きっと…
あれは…



4月21日(火) なんか体調が回復しないのに無駄に晴れてて腹立つぞっ!(^^;)


 「ラブエスカレーター」終了。まだCGが何枚か残ってるけど、もういいや。(笑)

 ストーリー紹介:

 親友が好きな女の子と交際することになってしまった高3の主人公の1年間を描いたゲーム。結局、最後にその親友に隠して交際していたことがばれてしまい、友情をなくしてしまうというオマケつき。

 例によって例のごとくだが、理恵ちゃん萌え。(笑) 惜しいことに、ストーリーの構成がゲームシステムにちょいとマッチしてないので、プレイするにはたるいところがある。でも代りというわけでもないでしょうが、キャラはいいです。煩なシーンでぐりぐりとアニメーションするのは、さすが、1年間発売延期を繰り返しただけのことはある。(笑)

 ま、そのことはここでの本題ではないので、詳細は非公式ファンページをご覧あれ。

 なんというか、主人公がダメダメってもんなんだけど、ヒロインの理恵ちゃんも結構それに劣らずダメダメっていうのがいい。青春だねぇ。(笑) 脇を固めてるキャラクタもギャルゲーではちょいと珍しいタイプ(でも一頃の青春ドラマなんてのには、結構よくいたタイプだけど)が多くて、まあ私みたいなおぢさんからすると、ノスタルジーたっぷりというか、いやあ俺もこういう高校時代を送りたかったなぁと思わせるエピソードがあったりして、とっても微笑ましくて作品評価は2重丸。:-)

 二人とも「愛する」ことに不器用なんだけど、それがいいんだよね。くすくす。願わくば素直に互いの愛情を育てていって「ちゃんと」愛しあえる二人になってねと思う。いや近頃そういうカップルって珍しいのかも知れないと思うから。「愛される」ことを一生懸命望む人は巷に溢れてても、「愛する」ことに喜びを感じる人って少ないんじゃないかなという気がしてるし。

 40年以上前になるが、Erich Fromm がその著書、The Art of Loving「愛するということ」で説いたように、「愛すること」はひとつの技能であり、(才能と言い換えてもよい)適切な訓練と学習なしには身につかない。無論、フロムが言ったそのままの意味でおいらは捉えてるわけではないけど、恋愛にしろ何にしろ「愛される」ことにばかり熱心で、自ら「愛する」ことには、一顧だにしない人が多すぎる。皆そうだと言ってもいいくらい。(当然、俺も例外じゃないけど)

 なぜそんな寂しい人生を送りたいんだろう?
 なぜそんなに相手を傷付けたがるんだろう?

 母親の子供に対する愛情だって近頃全然当てになんない。自分の存在不安や分離不安を子供を取り込むことで解消しようとするのは、支配或いは過干渉と云って「愛情」とは相容れないものなのだ。

 では、

 愛するとはどういうことなんだろう? 愛されるとはどういうことなんだろう?
 特別なことのようにも思えるし、ごくごく自然に出てくる振る舞いのようにも思える。

 人類は、あるいは少なくとも近代工業社会というものに生きる我々は、そんな簡単なことすらわからなくなっている。フロムの言説は、現代において、半ば常識と化している部分もあるし、相変わらずの部分もある。「吝嗇も大概にしろ」とフロムは主張したんだけど、現在でもそう言わねばならない点は寂しすぎるように思う。

 愛することは、そんなに嫌なことだろうか? 愛情を貪れなければ恋愛ではないんだろうか? 何か違うように思う。

# 本来なら、歴史社会論として、組織論としてこの問題を分析しなくてはならないんだ
# けど、今まで述べたことと重複する部分もあるし、いずれそれはきちんとした論文の
# 形で発表しようと思っているから、ここでは触れない。

 誰でも「愛されたい」と思うのは当然である。自分の存在を認められたい。自分が必要とされていることを感じていたい。ごく自然な欲求だと思う。

 でもそれに対価を払わねばならないと誰も思ってないことに問題の根源がある。

 愛情は商品ではない。無償の愛こそが至高のものである。そう言いたい? でも残念ながら、それは私益主義に凝り固まった硬直した反応に過ぎない。愛情を私益で量ろうとするからそんな反論が出てくる。相手のために何事かをなすのは「犠牲」であり自分の何かを「損失」することであり、だからその意味で「見返り」を求めることはさもしいことなのだと思ってしまう。

 だから相手が振り返ってくれなくても、優しい言葉のひとつもかけてくれなくても、ひたすら愛情を注ぎ、献身するのが本当の愛情だと勝手に結論づけ、相手がそうしてくれなければたちまち恨み言が口をついて出る。

# 経験的には、女に多い。

 フロムはそれを子供の愛し方、つまり「愛してくれるならその見返りとして愛してあげましょう」という態度だとする。私も同感である。誤解して欲しくないのは、子供にとって愛されることは実は当たり前のことに過ぎないということだ。だから子供の立場からすると別段何か条件をつけているわけではない。でも、大人がそれをやったら……つまり、そういうことだ。

 何のことはない。無償の愛こそどうのこうのという奴ほど、本当は吝嗇で愛情の欠片もない奴なのだ。愛情を秤にかけるべからずと云いながら、相手の愛情を値踏みしているのである。

 大人に求められるのは、愛する態度であり、愛する行為であり、愛することなのである。子供たちもそれを見て自ら愛することを知る。わかってるという人もいるだろう。指摘を受けるまでもないという人もいるだろう。ではなぜ?

 愛情を与えることはそれほど苦痛なのだろうか? 愛することとはそれほどの試練なのだろうか? 違う、そうじゃないと思いたい。悲しいことではあるが、愛することとはどうすることなのか、単にわからないだけなのだと思いたい。

 本当はすごく簡単なことなんだけど。

 彼、彼女が本当に望んでいるのは何なのか? 真摯に、真剣にそれを察しようとし、努めてそのように接しようとする。基本は単純で特別な才能や技能など必要としないものだ。本来なら。

 でも愛されることばかり追い求めてきた者には、とてつもなく難しい。努力なしにそれを行うことはできない。頭を使い、労を惜しまず行動する。成功するか失敗するかはわからない。そんな状態に我慢できない。

 努力なんて面倒なことは嫌だ、お手軽にインスタントに願いたい。そんなことを言ってたら永遠に愛など成就しない。第一、そんな「お手軽でインスタント」な愛情なんて、言ってる本人が満足できないくせに何をか言わんや。

 言葉にされない想いを「察する」なんてエスパーじゃあるまいし、できるわけがないじゃないか――まるでシンジ君だが、誰もそんなことは言ってない。わからなければ聞けばいいのだ。だけど聞き方ってものがある。何でも直接的に聞けばよいというものでもないから、本人ではなく適切な第三者に問う場合だってあるだろう。大切なのは行動することであって、言い訳することじゃない。

 そんなことをしたら嫌われるかも知れない――それはそうかも知れない。でも愛してるんでしょ? 大切なのは相手じゃないの?

 最初は難しいかも知れない。でも始めてみないことには関係を深めることなんてできない。

 そんなことしなくても、二人はわかりあえてるんだ――恋愛ではありがちな科白だけど、その分かり合えたはずの二人が数年を経て、別れたり、あるいは夫婦なら倦怠期だの言うのはなぜ? 愛されることばかり求めて、自ら愛することを怠ったから。そうでしょ?

 現在の一夫一婦制がいいとはちっとも思わないし、むしろ現代においては害毒の方が遥かに多いと私は思ってる。だからそれは歓迎すべき事態のように私に言う人もいるけれども、それとこれは問題が違う。

 寂しいのは皆同じ。居場所が欲しいのは皆同じ。だから愛することから始めましょう。あなたがその居場所になりましょう。そうすれば、相手があなたの居場所になってくれます。

 「ラブエスカレーター」でヒロインの理恵ちゃんは、一生懸命そうしようとします。男と女では愛情の示し方に違いはあるものの――「理恵ちゃん萌え〜」などと叫んでるんなら、彼女の行動原則である「愛すること」に真面目に取り組まないとね。

 ただ問題なのは、ギャルゲーってその逆、つまり「愛される」快感をシミュレートするものだから、この場合言語矛盾になってしまうということだな。(笑) やっぱ、いい若い者は、ギャルゲーなんぞしてる場合じゃないんだ。実践しろ、実践! :-)

 ああ、でも実践するに足る女が巷にいるかどうかは別問題。(笑) あれ、とすると、やっぱりギャルゲーやってるしかないのか?(爆笑)



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